オニテンの読書会

文化・民俗や、オススメ本の紹介、思ったことも書きます。

本が溢れてくる瞬間に。 インプットとアウトプットの境界線に立って。

 みなさんは、本を読んでいる途中で、突然読み進めることができなくなってしまうことはないだろうか。わたしは、月に10冊から20冊ほど本を読むのだが、5〜10冊ほど連続して読むと、吐き気や怒りにも似た感情が沸き起こり、本を読み進めることができなくなってしまうことが、よくある。

 わたしは、この瞬間を「本が溢れてくる」瞬間と捉えている。この瞬間は、本の途中にやってくるのか、読み終えた時にやってくるのか、それはよくわからない。ただ、この瞬間から、本を読む、活字を追うことができなくなってしまう。

 無理に読み進めようとも、すんなりと文字や表現が入ってこなくなってしまうのだ。それは、この瞬間に突如、怒りにも似た感情に襲われることによる。「吐き出したい」そんな気持ちで一杯になってしまう。

 だから、小説を読んでいたなら、「この表現は必要なのか」、「主人公の行動に意味はあるのか」、「そもそもこの小説ひどくないか」などと、ページに直接「小言」を書きなぐる。学術書であれば、よりひどくなる、とにかくツッコミまくる。のべつまくなしに、ツッコむ。それは、読むことから、「吐く」ことに強制的に移行させられている、そんな感覚だ。

 この時、わたしは本を読むことを止める。生活の中から、読書の時間を消してしまう。そして、「吐き出したい」言葉を、書きなぐることにしている。この感覚に初めて、襲われたのは高校生の時だった。ブログやSNSをしていなかったあの頃、わたしは、ノートに言葉を書き散らかしていた。それは、論理的にも、文章的にも、内容も意味も、まったく理解ができない、めちゃくちゃなものだった。『千と千尋の神隠し』で、カオナシが、呑み込んで来たものを吐き出すシーンがあるが、あれは、読んできたもの、見てきたもの、勉強してきたものが、うまく表現できない、不恰好さのメタファーなのかも、と思った。

 閑話休題。大人になると、吐き出される言葉も、落ち着いてきた。書きたいことを、書けるようになったのかもしれない。

 この「本が溢れてくる瞬間」は、アウトプットに最適な時間に変わっていった。学生時代は、レポートや論文を進めることに役立った。今でも、ノートに書きなぐる。人に見られたくないノートができあがる。しかし、書かずにはいられない。

 インプットとアウトプットの境界、読書量がある一定を越えた瞬間に、書かずにはいられなくなる。それは、嘔吐や排泄に似ている。呑み込んだものが良質であれば、吐き出すものもそれに呼応し、質もよくなるのかもしれない。

 

 今回は、読書をするたびに、わたしに訪れる「本が溢れてくる」瞬間について書いた。みなさんは、これに似た経験をしたことがあるだろうか。