初恋という、ひどく浅はかで、暴力的な感情について
今朝、初恋の女の子と自転車でふたり乗りして小さなお祭りに行く夢を見た。どんな内容だったか覚えてはおらず、断片的なシーンしか思い出せないのだけれども、特別な夢を見たという感覚が残っている。
というのも、気分が良いのだ。朝からびっくりするくらい快調だ。となりに寝ていた1歳の娘が、わたしと同時に目を覚まして、ふたり見つめあって微笑みあった。なぜ、娘が笑っていたのかわからないが、おそらく、わたしがニヤケていたに違いない。
30歳を超えたおじさん、妻子にも恵まれ、それなりに満足した人生を送っているつもりだったのに、初恋の女の子が夢に出てきただけで、これほどまでにご機嫌なのか、とすこし恥ずかしい気持ちになり、一年ぶりにブログを書いている。
初恋とは、なんだろうかと、娘が昼寝をしている横で考えた。わたしにとって、初恋とは、「焦り」、「劣等感」といった負の感情の総決算のようなもので、あたたかな気持ちとは無縁のものだ。
わたしの初恋を作品で例えるとしたら、それは『行け!稲中卓球部』だろうと思う。
わたし自身は、この作品ほど、下品で素敵な日常を過ごしてはいなかった。ただ、わたしは、この作品が人々、とくに中高生を惹きつけた理由に、友人間の優劣、成長の速度、先に進む友人たちへの焦り、があると考えている。
(それについては、下のブログで書きました。)
その当時のことを思い出すと、わたしはいつも「焦っていた」ことを思い出す。彼女が誰かと、付き合ってしまうのではないか。卒業したら会うことができなくなってしまうのではないかと。
彼女がとても特別な存在に思え、彼女と自分を比べ、落ち込んだりもした。
10年ほど前になるが、彼女から突然メールで、「結婚式するから、二次会来てくれない?」と連絡が来た時は、手が震え、タクシーの中で、おおぉと低く唸ってしまった。(そのとき、わたしはすでに結婚しておりました。)
今では、結婚しあたたかな家庭を築いているわたしにとって、恋をしていたその時の感情はひどく懐かしく、不思議なものに感じる。いま、わたしは落ち着いているのだ。つまり、ドキドキはない!それが良い!
わたしの初恋に覚えた感情と真反対の感情を描いたものが、井上靖の短編集『愛』に収録されている「結婚記念日」という短編だ。
内容は、 妻を亡くして二年経った、一生独り身を決めている三七歳の春吉が、亡き妻との旅の想い出を辿るというもので、お涙ちょうだいの物語と思いきや、筆致は淡々とふたりの会話や、動作を描いている。
主人公の春吉も、奥さんのことが大好きなのかというと、そういうこともなく、なんで一緒にいるのかなぁ、といった具合だ。特別好きだ、この人しかいない、なんて感情はないのに、なぜか、他の人と再婚する気にならない、そんなお話である。
ただ、たんたんと相手のことを見つめ、日々を生活する、それを『愛』とまとめるなら、わたしの初恋はなんて暴力的なものだろうか。これが、愛と、恋との違いなのか、と考えた。
初恋の女の子も、いまは30半ばを越え、立派な女性となっていだろうと思う。わたしは、結婚をし、娘の育児を頑張っている。彼女とは、成人式以来会っていないので、15年以上顔を合わせいないし、前述した結婚式の二次会の招待メール以降、連絡は取っていない。わたし自身、彼女の存在さえ忘れていた、気でいた。
36歳のおっさんが、初恋の女の子と二人乗りをする夢を見て、テンション高くなって、ブログを書いた、正直、自分でも気持ちが悪いと思う。