「お金の奴隷」になりたい人たちー新たなサド・マゾの形 Financial Domination
『家畜人ヤプー』に出会って以来、SMの精神性について興味を持ち、色々と調べております。(自分自身は、Sだか、Mだかわかりませんし、全くそういう気はない?です。)
そんなわたしが、最近出会ったのが、Financial dominationという新たなSMの形式です。Financial dominationは、直訳すれば、「財産の支配、金銭の支配」となり、なんだか世界的な巨大企業が、世界を動かしているんだ!!、もしくは、キンコン西野さんの「お金の奴隷解放宣言」なんて、ことを想起してしまいますが、Financial domination (findom)は、インターネット上において急速に広まっている性的なフェチズムの一つです。
このFinancial dominationは、女王様とその奴隷の関係性からできている《従来?》のSMの関係性と少し違います!
(従来のSMのイメージhttp://music-book.jp/video/news/news/141963/img-1より。abema TVの『日村がゆく』は最高に面白い番組ですよ!!)
まず、このFindomの奴隷のほとんどが男性であることに特徴があります。彼らは、インターネット上で自ら女王様となる女性を探し、お金を媒介としたプレイを楽しむのです。彼らは、Pay pig / cash slave と呼ばれます。まさに「お金の奴隷」です。
女王様をFinancial dominatrix(mistress)と呼び、彼女たちは、cash slave、Pay pigである男性を辱めたり、誘惑したり、脅迫したり、金銭を渡すように迫ります。それ以外にも、ソーシャルメディア上でのプロフィールで、欲しいものリストを公開し、物品を送ることもあるそうです。
インターネット上のみでの関係であることも多く、skypeやSNSでの会話だけで送金という「プレイ」もあります。
(写真はhttp://blog.cearalynch.com/2017/03/12/how-to-make-money-as-a-financial-dominatrix/より)
全てのPay pig / cash slave がご主人様に無視されたい、辱められたいというわけではないようですが、魅力的な女性に、自分の貯蓄や給料を巻き上げられ、彼女の思うままに使われてしまいたい、という願望があるようです。
Pay pig / cash slave になる人々の年齢は、20代〜60代と幅があり、職業もさまざま、もちろん裕福な奴隷もいれば、貧乏な奴隷もいるのです。彼らの中には、実際の身の丈以上に、ご主人様に貢いでしまうこともあり、重度の奴隷に対しては、医療的なケアが必要であると、専門家が警鐘を鳴らしています。
アジアにも、同様にインターネット介して、Financial Dominationの奴隷契約をするサービスがあり、Hon-Kongでも、多くの女王様が活躍しています。
日本においても、「貢ぎ豚」、「貢ぎ奴隷」というハッシュタグでsns上で奴隷を募集している方々がいらっしゃいます。ただ、このFinancial Dominationの奥深さは、英語を介して、サイトを立ち上げており、国を越えてプレイを楽しめることです。
このFInancial Dominationでは、実際にあって、お金を捲き上げられるというプレイもありますが、驚くべきことに、全く会うこともなく、ただSkypeやメールなどで脅迫されるだけ、というプレイが普及しています。つまりは、地球の裏側から、SMプレイが楽しめるという、凄まじい精神的なプレイなのです。英語ができれば、世界が広がりますね。
興味のあるかたは、FInancial Dominationで検索してみてください。
今回の記事を書いている中で、いろいろな関係でお金を回しているひと、そして、その人にお金を回すことで、安心したり、自分自身が向上している実感を得ている人たちも、いろんな意味でプレイなんだよな、と思いました。
【参考サイト】
こんな記事も書いています!
一千年前のあきれるほどのラブソング_清原深養父は、会えても満足しない。
こんな歌があります。
恋しいって、誰が作った言葉だろうね。死ぬっていった方が、合っているよ。ぼくのこの状態を言い表すのには。
逢ったとたんに、少し悲しくなってしまう。だって、いずれ別れがくることを知っているから。
夢で逢ったとして、それでどうやって心が慰められるっていうんだい。現実で逢えても、満足することなんてできないのに。
う〜ん。恋に悩んでいます。この恋の歌を歌っているのが、なんと千年以上前の歌人、清原深養父(889~931に生存)なのです。深養父は、清少納言の曽祖父にあたる人物です。彼の残した和歌は、『百人一首』でも詠まれているので、ご存知の方も多くいらっしゃるのではないでしょうか?
先ほど、例としてあげた歌ですが、実際の和歌は以下のようになります。(カッコ)の数字は、参照した新版 古今和歌集 現代語訳付き (角川ソフィア文庫) によります。
恋しとはたが名づけむ言ならむ死ぬとぞただに言ふべかりける(698)
逢ふからもものはなこそかなしけれ別れむことをかねて思へば(429)
うばたまの夢になにかはなぐさむうつつにだにもあかぬ心を(449)
となっています。特に、最初の和歌は、わたしが清原深養父を知るきっかけになった歌でした。この歌が、大岡信さんの『折々のうた』にとりあげられており、中学生だったわたしは、大きな衝撃を受けたのでした。これは、まさに、思春期に、GOING STEADY、銀杏BOYZを聴いたような衝撃でした。
「昔の人も、ぼくと同じように恋に悩んでいたのだなぁ」と、ものすごい普通の感想を抱いていたわけですが、大人になってこの歌人の和歌を読んでみると、まぁすごいんです。内容が!!
もう、会いたくて震えるを超えてます。会えても満足しない。
とにかく、恋に愛に飢えているのです。
今回の記事では、清原深養父の恋の歌に迫ります!!
《目次》
それでは、深養父の恋の世界に飛び立ちましょう!!! 和歌は、高田祐彦先生の訳を参考にわかりやすくしています。
離れていても、心はそばにいるよ、いや、ついていくよ。。。
深養父の恋心は、当然、相手が遠くにいても関係ありません。遠距離になると自然消滅するような大学生の恋愛ではないのです。(ちなみに、わたしは遠距離5年で、結婚しました。頑張れ遠距離恋愛!!)
はるか彼方にまで通う心は、あなたに遅れずについていくので、他人からは離れ離れに見えているかもしれないけれど、体が離れているだけだからね。
雲居にもかよふ心のおくれねば別ると人に見ゆばかりなり(378)
この和歌では、離れていても、そばにいるよ、ついていくよという、執念ぶかさが伺えますね。
会っても満足できない、もう、わけかんない!
深養父は、好きな女性に会っても満足できません。吹きすさぶ恋の嵐、それが、深養父の世界です。
心というものは、理に合わないものだ。逢っているのにも関わらず、恋しいなんて。
心をぞわりなきものと思ひぬるみるものからや恋しかるべき(685)
逢っても逢っても恋しい、もう、どうして!! という深養父の恋心。
恋しくて、死んでしまう、死んだら、誰のせいだろうね?
きわめつけなのが、恋が原因で死ぬ「恋死」!恋しくて死んでしまう、それだけなら、わかりますが、この歌は、少し怖いです。
ぼくが、 恋死にしたら、だれの名前がうわさになるでしょうね。あなたの名前ですよ。あなたは、ぼくの死を世の無常のせいにするとしてもね。
恋ひ死なばたが名は立たじ世の中の常なきものと言ひはなすとも(603)
もう、怖いです。なんか、じっとりとしたス◯ーカー的な陰湿さを感じてしまいます。でも、それだけ、好きって伝えたいってことかも!!
恋は、因果応報!やさしくすればよかったよ!
深養父の人間らしさは、好きではない女性に対しての和歌で、うかがい知ることができます。
ぼくのことを思ってくれたあの子を、ぼくも同じように思っていればよかった。ぴったり、いま、その報いを受けている。ぼくの好きな人が、ぼくを好きになってくれない。
思いけむ人をぞともに思はましまさしやむいなかりけりやは(1042)
人間らしい、優しくすればよかった、という後悔をうたった歌です。みなさんも、こころあたりはありませんか?
今回の記事では、清原深養父の和歌を、恋心をすこし勉強してみました。1000年も昔に、なんだか今のJPOPの歌詞の世界が広がっていたようで、興味深いですね。
《参考文献》
耳がゾクゾクしたい人急増中!? 今聴くべきASMRの世界
みなさんは、ASMRという言葉を知っていますか。
ASMRとは、Autonomous Sensory Meridian Response の略語で、耳に息を吹きかけられる、耳元で囁かれるなどの聴覚を刺激することで、心地よい、もしくは、脳がとろけそうになるような感覚を与えるもののことです。今回の記事では、youtubeで公開されているASMRの動画を紹介していきたいと思います。
たくさんの動画をご紹介しますので、ぜひヘッドホンをして、記事を読み進めてください!!
〈目次〉
ASMRの三流派ーあなたは、どっち派?
ASMRには、かなり大雑把にいえば3つの流派があります。一つは、耳元で囁く、もう一つは、生活音、そして、耳を直接的に刺激するものです。それでは、動画を紹介しますので、ヘッドホンをしてから動画をご確認ください!!
①囁く系
②生活音系
③耳への直接攻撃
大雑把に三つにわけましたが、たくさんの種類がありますので、色々とチェックしてみてください!!
いま、日本人のASMR-youtuberが少ない!!
前述したhatomugi(はとむぎ)さんが活躍していますが、他国の方々に比べれば、かなり日本人のASMR-youtuberは少ない状況です。下の動画は、数少ない日本人youtuberの方の動画です。
そんな中、韓国人の女性が、日本語を話している動画が人気になっています。
いま、まさに、日本人のyoutuberが進出すべき、荒野こそがASMRなのかもしれません!! ぜひ、ASMRに挑戦していただきたいですね!
英語の勉強になる!?
私が、ASMRと出会ったのは、つい一週間ほど前なのですが、ネイティブの人が英語で話している動画を探しているときでした。ASMRには、Roleplayといって、劇のようにある日常の場面を演じている動画がたくさんアップロードされています。
ASMRの動画では、youtuberの方が、ささやいているので、聞き取れるか不安な方もいるかと思いますが、録音器具が良いものが多く、非常に聞き取りやすいです。
しかも、イギリスやアメリカだけでなく、非英語圏の人も英語を話している動画が多くありますので、いろいろな国の英語に触れることができます!!
イケメンによるフランス語の授業を受けることもできます!!
ASMRビジネスが熱い!! IKEAも注目!
こうしたASMRに着目する企業も増えてきました。世界的メーカーであるIKEAは、自社のCMにASMRを取り入れました。
このCMは、大きな効果を生み、キャンペーン期間中の4〜5%以上の売り上げが増加したそうです。これからは、CMでASMRを使う企業が増えいていくことでしょう!
〈引用元〉
筆者の心に突き刺さった動画たち
雰囲気がすごく怪しくて、なんだか不思議な気持ちになりました。
なんだか、怪しげなタイトルですが、内容はもっとカオスです。
ムスリム(?)の女子と、ご飯を食べる動画です。ヒジャブをしているだけで、なんとなく神秘的に見える?
みなさん、ASMRは、どうでしたか?合わなかった、という人もいたかもしれません。しかし、IKEAの成功のようにASMR市場はこれからも拡大し続けることでしょう。今回の記事では、最近気になっていたASMRの世界をご紹介しました!
〈アマゾンでも、商品として売っているんですね!!〉
Binaural mouth sounds and ear touching asmr 3dio freespacepro
- アーティスト: DianaDewAsmr
- 出版社/メーカー: 574219 Records DK
- 発売日: 2015/02/12
- メディア: MP3 ダウンロード
- この商品を含むブログを見る
Whispered Binaural Ear Play! (3dio Blowing Cleaning Mic Brushing Ear Cupping)
- アーティスト: GwenGwiz
- 出版社/メーカー: Ritual Network
- 発売日: 2018/04/29
- メディア: MP3 ダウンロード
- この商品を含むブログを見る
同性愛への嫌悪、そしてそれは如何に表現されるのか。『同性愛嫌悪を知る辞典』ーオススメの本の紹介ですー
世界には様々な憎悪、嫌悪が渦巻いています。外国人に対する嫌悪(xenophobia、ゼノフォビア)、女性に対する嫌悪(misogyny、ミソジニー)、そして、同性愛に対する嫌悪(homophobia、ホモフォビア)など、問題が顕在化されるにともない、「人の嫌悪感」についての研究が盛んになってきました。
今回の記事では、同性愛者に対する嫌悪、そしてそれが如何に表現されるのかについて詳細にまとめられた『同性愛嫌悪を知る辞典』をご紹介したいと思います。
この本は、現在約19,000円となっています。非常に高価な本ですが、市町村の図書館や、大学図書館には所蔵されていると思いますので、ぜひ、図書館に足を運んで読んでいただきたいと思います。非常に興味深く、かつ、人間の嫌悪という感情についても考えさせられる本となっています。
【目次】
・この辞典の視座
現在では、人々が同性愛に対して寛容になり、同性愛者が自由に生きていけるようになったという見解が広く流布されています。しかし、アメリカではトランプ政権発足を発端に同性愛者に対するヘイトクライムが急増、日本においても一橋大学で同性愛者であることをアウティングされ、自殺に至る事件が起こっており、まだまだLGBTに対する理解が進んでいるとは言えない状況にあります。
この『同性愛嫌悪を知る辞典』では、同性愛嫌悪を、身体的、精神的、象徴的暴力の総体であると定義します。同性愛嫌悪は、人類が抱える深刻で複雑な問題であり、深く考察するべきであると提言します。そして、その嫌悪と戦うためには、真の原因をつきとめ、その嫌悪が如何に日常的に表現されているかを分析する必要があるとするのです。
・いかに同性愛嫌悪は日常に紛れ込んでいるのか?ー嫌悪を知ることからー
テレビなどにみられる《表現》に対して、「これは嫌悪、差別ではないか?」と声をあげると、決まって「それは言いがかりではないか!」という意見があります(とんねるずの保毛尾田問題、ダウンタウンの黒塗り問題など)。その炎上の背後には、笑いへと昇華することを目的としているものであっても、人々の嫌悪を惹起する危険性がないと言い切れない現状があるのではないでしょうか。わたし自身、お笑いが大好きですし、どこからどこまでが許容されるのか、また、避けるべきなのかは、非常に難しいと感じています。しかし、こうした状況だからこそ、ただ避けるのではなく、いかに人間の差別心や嫌悪が表現されているのかを知り、マイノリティへの理解を深める必要があるのではないでしょうか。
この辞典には、そうしたテレビなどにみられる表現が文章だけでなく、写真やイラストによって詳細に解説されています。
・項目「広告」(230-234頁)をみてみましょう!
この辞典で、とても興味深かった項目「広告」を、みてみましょう。
まず、広告は、経済的対象であり、できるだけ多くの消費者を引きつけることが目的となっていることから、異性愛主義的なイデオロギーを表出する特性を持ちます。
そして、ヨーロッパ社会においては、広告における嫌悪の表出は三つの時期に分けることができるとしています。
まず、❶広告の開始から1950年代まで、❷1960年代から1990年代まで、そして❸1994年から現在まで、の三時代区分です。とりわけ興味深いのは、❷の時期での、同性愛者の描かれ方です。
❶1950年代までは、同性愛は否定され、タブーとして隠されていたとします。
❷1960〜1990年代までの期間には、同性愛はカリカチュアされる事になります。
❸1994年から現在まで、同性愛は物象化されているといいます。
❶の時期には、広告は、同性愛を暗に意味するようにキャッチコピーやイラスト用いて、人々の関心を引こうとするのです。
❷の時期は、より直接的に同性愛者が描かれる事になりますが、同性愛者は、決まって風刺や滑稽な役割を担うことになります。同性愛者は、「奇形」として描写され、人々はそれを面白がると同時に、驚嘆することになります。同性愛者は、滑稽で感じのいい道化を演じるか、だまし絵および間違いといったパターンの物語的図式の中に現れます。そして、同性愛者は異常、病的なものの領域に追いやられていくのです。そこで独創性を追い求める広告業者は、同性愛者の「異常性」に対する言説を利用しようと画策するのです。
❸の時期には、同性愛者自身も消費者として考えられるとともに、同性愛のイメージをより性的に表現する「セクシュアリティの過剰」の状態であるといいます。とりわけ、レズビアンは、異性愛主義的観点から過度に官能的に描かれる事になるのです。
こうした、広告の傾向は、西欧の広告から例証されていますが、日本にも共通するものがあるのではないでしょうか。
また、この辞典には、日本についての考察も巻末に載っており、とても興味深いものとなっています。台湾やオーストラリアでも同性婚が認められるようになり、日本でも議論が活発になってきています。こうした時勢の中で、同性愛に向けられた/向けられる嫌悪について、この辞典を通して学んでみてはいかがでしょうか?
読者の方を大募集しております。興味を持っていただけた方は、是非、下のボタンをポッチッと押してくださると嬉しいです!!
↓↓↓↓↓↓
↑↑↑↑↑↑
バナナと人間の一生_死と再生の象徴_
台湾画家、林惺嶽が描いたバナナ(図像出典:學學台灣文化色彩)
こんにちは、台湾出身のキャロルです。今回の記事では、バナナの一生(?)を紹介していきたいと思います。
やや変な始まりですが、
私は割と日本のクイズ番組が好きです。
頭の回転が悪くて、あまり答えられそうにないですが、クイズの出し方や採点の仕方はバリエーションが富んでいるので、面白いと思います。この前、「Qさま」で「動植物の成長観察の問題」が一時期たくさん出題していました。芽・卵・幼獣などの幼い頃から、果樹・成獣といった完全型までの成長過程を、順番で4、5枚の写真を見せ、早押しをする形式のクイズでした。ある日、バナナの木が出題されました。私は一発目での写真で分かりましたが、クイズの参加者はなかなか答えられなくて、一番最後の図までギリギリのところで答えがでた記憶があります。
そこで、「そういえば、日本にバナナの木があまりみたことがないなあ」、と感じました。
これはバナナの木です!!
バナナの一生
バナナの木は台湾において、果樹園に行かなくても、里山や道端にあってもおかしくない植物です。
つい最近、台湾では、昔お産で亡くなった女性の墓にバナナや芭蕉、カンナなど、バナナ類(…正確に言うと、バショウ科の方になるでしょう)の植物を植える風習があったことを知りました。それはバナナが実ると、子どもが生まれたことを象徴する意味するようです。悲しい話ですが、私は何となく、その女性自身がバナナとして生まれ変わり、順調に実る(子ども生む)ことによって、象徴的に難産の苦しみから解放することではないか、と思いました。
それをきっかけに、バナナの栽培方法について、少し調べました。どうやらバナナは木ではなく、草の部類に入れられそうです。そして、本物の茎は地下にありまして、地上にある木のようなものは「偽茎」と呼ばれます。一本の偽茎の開花は一回のみです。花を咲き、バナナを実ったあと、枯れてしまい、株元から他の小さいな偽茎(子株、元々の偽茎は「親株」に対して)が芽生える。つまり、バナナは種ではなく、偽茎によって繁殖しているようです。バナナの農家では、子株の偽茎が生えると、栄養を取らわれないように、親株の方を倒してしまいます。従って、(その本体は地下にありますが)「バナナの木」は一生一代、一回の開花と結果で終わります。
熟したバナナの木は「苞葉」を発し、ここから花とバナナを生み出す。(図像出典:バナナの成長)
緑色のバナナの果実が生えてきました。先端の茶色っぽいものはバナナの花です。(図像出典:バナナの成長)
愛と名付ける母の犠牲
台湾では「芎蕉吐子為子死」(バナナは子どもを生み、その子のために死ぬ)という閩南語(方言)の諺があります。ちょっと古臭い感じの諺かもしれません、今の若者は恐らく知らない人が多いと思います(私も辞書を引いて、はじめて知りました!)。その諺は、親(特に母)の愛の偉大さを称える意味です。最初は、「そこまでか!?」と思いましたが、バナナの成長過程を調べた後、何となく想像がつきました。
ここで再び、台湾でお産で亡くなった女性の墓にバナナを植える風習の話に戻りましょう。最初私は、この風習を、女性は象徴的に難産の苦しみから解放するのだと思いますが、まさかバナナの木はそんなに早く「死ぬ」とは予想外でした。これは、子どもを生むため、女性(母)に同じ犠牲を繰り返すことを求める意味でしょうか?全く同じ悲劇(産死)を繰り返しているのでしょうか……
想像だけでゾッとする恐ろしさを感じました…
死の起源を例えるバナナ
また、台湾よりも、バナナは恐らく東南アジアの国々でもっと親しまれる植物でしょう。
東南アジアの方は、死の起源に関係する神話、「バナナ型神話」があります。
ここで『新・神話学入門』の中から関連する物語を引用します。
スラウェシ島ミアン・バランタク族の神話
…(前略)…当時の人間はまだ不死身であった。年をとると脱皮して若返ったからである。しかし争いは日常茶飯事であり、姦通や悪事が増えたころ、洪水がやってきた。生き残ったのは、前もって警告を聞きいれ、プラウ舟造っていた一組の夫婦だけだった。二人を乗せた舟は天神の元にたどり着いた。天神は二人にエビを与えたが、彼らは食べようとしなかった。次にバナナを与えたところ、二人は食べた。こうして人間はバナナを選んだために死ぬ運命となった。もしエビを選んでいれば、脱皮して若返る能力が維持できていたのである。これは実際に、収穫が終了したバナナの株は枯死するという性質にもとづく。
(『新・神話学入門』、頁156-157)
世界レベル(?)の神話でも、バナナの生態から「死」との結びつきを見出した…
でも、物語の内容が、かなり大事なため、逆に怖くありませんでした(笑)
開花して、実った後で枯れてしまったバナナのイメージは、まるでかけがえのない人間の一生のようで、生きていることは、常に死が伴っています。
そして、伝統的な女性の役割の象徴でもあります。妊娠して、出産することによって「母」になり、母は次のいのちにバトンタッチしなければいけない運命をもっています。
今まであまりにも普通すぎて気を付けていませんが、最近は台湾に帰るたびにバナナの木をみて、何となく複雑な気持ちになりました…
いいえ、チョコバナナをみることでさえやや悲しくなりました…
今日は主にバナナの生態と台湾の風習、東南アジアの神話を紹介しました。
もしバナナの貿易、伝播などにも興味のある方は、ぜひ
バナナの世界史――歴史を変えた果物の数奇な運命 (ヒストリカル・スタディーズ)
- 作者: ダン・コッペル,黒川由美
- 出版社/メーカー: 太田出版
- 発売日: 2012/01/19
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 21回
- この商品を含むブログ (10件) を見る
参考資料
- 農業知識入門サイト(中国語):
http://kmweb.coa.gov.tw/knowledge/knowledge_cp.aspx?ArticleId=1029154&ArticleType=A&CategoryId=&kpi=0&dateS=&dateE=# - バナナの成長(中国語):
-
山田仁史、2017、『新神話学入門』、朝倉書店。
読者の方を大募集しております。興味を持っていただけた方は、是非、下のボタンをポッチッと押してくださると嬉しいです!!
↓↓↓↓↓↓
↑↑↑↑↑↑
台湾の「教師の日」について
皆様、台湾に「教師の日」という祝日があることはご存知でしょうか?
台湾では、9月28日は「教師の日」(教師節)と呼ばれています。
なぜ9月28日が教師の日なのかと申しますと、由来は孔子の誕生日と言われています。
(目次)
国に祀られる孔子の始まり
孔子を祀る儀礼は昔からありますが、「教師の日」として祝日となったのは現代的な祝日の制定と関係しています。
孔子を祀ることは紀元前478年に遡ることができます。孔子が亡くなって2年が経ったころ、当時の孔子の出身地でもある魯国の王様は、彼を祀るために曲阜孔廟(山東省)を建てました。孔廟の中には孔子が生前に使いっていた衣服や書籍などが置かれ、定期的に祭祀をはじめました。紀元前195年、中国の漢代の皇帝、漢高祖は曲阜孔廟において、牛を中心とする生け贄など(ここでは「太牢」と称されました)を用いて孔子を祭祀したのでした。これは国家レベルで孔子を祀る最初のものでした(※最初に廟を建てた魯国の方は、恐らく日本の江戸時代の「大名」レベルで、統一した国ではありませんでした)。漢代では、儒教は統治者側に推奨され、孔子に対する祭祀も中国においてますます盛んになっていきます。国レベルの方は孔子を盛大に祀っていまして、手順などもますます複雑になってきました。他方、各地で孔廟が建てられ、そして、祀るようになりました。
台湾の台南市の孔子廟は今でも本格的な「生け贄」を使っています。
図像出典:中評搜索
台湾の台北市の孔子廟の方はエコのために、本物の家畜を使わず、小麦粉などで形を牛に模したものが使われました。
図像出典:
http://reduce-co2.civil.taipei/ct.asp?xItem=95467544&ctNode=76505&mp=10200H
台湾独自の調査
清代の末になると、儀礼行う日付やはバラバラになりました。第2次大戦以降、中国本土で内戦が起き、1949年蒋介石をはじめとする国民党軍側は台湾に撤退し、後に中国本土は共産党の統制に入りました。1952年の際に、中華民国(即ち、現在の「台湾」、のこと)において、専門家達を要請し、孔子の誕生日は9月28日にあると推測し、その日を「教師の日」(教師節)にしました。1968年、中国(即ち、現在の「中国」のこと)において「文化大革命」という資産階級や知識人の闘争が始まり、それに対抗として、中華民国(即ち、現在の「台湾」、のこと)は「こっちこそ中国文化の本家だ!」を宣言したいために、政府側から有識者を集めて、孔子を祀る儀礼の儀礼書を作成し、儀礼の手順の大枠を規定しました。小中学校生徒達の参加も推奨されました。
去年、「教師の日」の前日、台北の孔子廟での儀礼の予行演習を見学しました。
天気が良くて、観客も多いでした。
中華文化のシンボル
今まで述べてきたように、孔子を祭祀することは国・政府側からの政治的な意味合いが強いため、総統、市長などの儀礼を参加することが望まれました。孔子は、「儒教」、「中華文化」のシンボルとも言えるので、中華民国(即ち、現在の「台湾」、のこと)のナショナリズムやアイデンティティとも関わっています。そのため、誰かこの儀礼を参加するか、誰かわざと避けていたか、儀礼を参加するか否か、台湾のメディアの焦点になることが多いです。
黒い服を着ている男性は、現在の台北市市長、柯文哲です。市長になって3年目ではじめて孔子を祀る儀礼を参加することによって、政治的な立場が問われました。
私の思い出と教師の日
ちなみに、「教師の日」は祝日ですが、2001年法律などの調節によって、休まない祝日になりました。
私まだ小学生、中学生ぐらいの時、「教師の日」の定番の祝い方は、クラスの全員が先生に対してイタズラをすることでした。
いくつかオーソドックスなやり方は、
1.隣のクラスの生徒と全員入れ替え、先生を戸惑わせる
2.クラス全員机の下に隠れて、先生を戸惑わせる
3.クラス全員寝るふりをして、先生を戸惑わせる
…的なものでした。
どう考えても、地味なイタズラでした(笑)。
今回、台湾の「教師の日」について、紹介させて頂きました!
参考資料
台湾の「即身仏」に会いにいこう ー肉身菩薩への祈りー
みなさま、台湾にも「即身仏」があることはご存知でしょうか。
今回は台湾の「即身仏」について、少し紹介していきたいと思います。
(写真も添付していますので、ちょっと怖いと思う方はお気をつけてください)
【目次】
「即身仏」と「ミイラ」
ミイラとは自然的に、もしくは人工的に防腐処理が施され、乾燥して長く保存された遺体のことを意味しています。
その語源について、『広辞苑』と『百科事典マイペディア』を見てみると、エジプトでミイラを作る際に使用された「没薬」のポルトガル語「mirra」が訛って「ミイラ」となったとされています。そして、ミイラの当て字は漢字で「木乃伊」と表記し、現在、中国語の中でもミイラのこと「木乃伊」(ムナィイ,munaiyi)と呼ばれています。
中国語の「木乃伊」も翻訳語ですが、「ムナィイ」の発音は「ミイラ」と全然似ていませんでした。『大辞林』によると、「木乃伊」とはオランダ語「mummie」の漢訳語と書いていました。一方で、台湾の医者・樊聖は「木乃伊」のことをアラビア語の「防腐処理用の樹脂」を意味する言葉「mumiya」を由来すると述べています。唐代ではペルシャから伝来した「蜜陀僧」(もしくは「没多僧」)という珍しい漢方薬がありまして、それも恐らくミイラのことを指していると考えられます。唐代の医書『新修本草』では、「蜜陀僧」の味を「しょっぱい」と評価し、下痢、痔には効き、顔でも傷薬として使えられそうです。
即身仏もミイラの一種に数えられますが、遺体の保存、死者のための儀礼を目的として「作る」ミイラと異なり、即身仏は自発的な意思によって、自ら「なる」ことが特徴的です。即身仏となった僧侶は人々の信仰対象であり、日本で最古の即身仏は1363年、即身仏になった新潟県西生寺の弘智法印です。ところが、即身仏といえば、やはり山形県を連想する方が多いでしょう。特に出羽三山の「湯殿山」の信仰と関連し、山形では6体(名?)の即身仏が存在しています。
湯殿山系統の即身仏は江戸時代に集中して、当時繰り返して発生する飢饉にも関係しています。即身仏になろうとする修行者は生前から木食行(米、麦、粟、黍、豆などの穀物を断ち、木の実のみ食べています)や水行などの荒行を行い、遺体を保存して人々を救済する願いをかける。
即身仏のことを更に知りたい方は是非↓
台湾の「肉身菩薩」
その湯殿山系即身仏の由来は空海の入定伝説に遡ることができまして、そして更に遡るとその源流は中国にありました。隋・唐時代以降、中国で遺体を防腐処理を加え、金泥などを塗って、仏像のように加工するミイラがありました。それらの仏像は「肉身仏」と呼ばれています。台湾でも中国の流れに引き続き、遺体を保存して、世の中の人々を救済しようとする僧侶を「肉身菩薩」と呼びます。江戸時代に集中する日本の湯殿山系即身仏と異なり、台湾の「肉身菩薩」は、2000年代にも新たに現れているのです。台湾大百科によると、台湾では戦後、6人の仏教僧侶が「肉身菩薩」となり、祀られている時間の順で、以下のように記しています。
- 1957年、慈航法師
- 1976年、清厳法師
- 1983年、瀛妙法師
- 1982年、普照法師
- 1979年、甘珠活仏
- 2004年、釈開豊
「肉身菩薩」になろうとする僧侶は、死後、火葬をせず、「坐缸」の形をして遺体を処理します。中国語の「缸」(gang)とは「大きなカメ」を指しています。そして、「坐缸」とは文字通り、遺体を坐ったまま、上下を二つの大きなカメに閉じ入れることを指しています。カメの中には木炭、石灰などを入れまして、一定な時間を経った後、カメを開いて中の様子をみてみます。もし腐ったら素早く火葬や土葬をし、もし概ね完全でしたら、肉体はそのまま「全身舎利」となります。ミイラの外見を保つ日本の即身仏と異なり、台湾の「肉身菩薩」は中国系統で、専門家が防腐の処理を施した後、なるべく生前のような輪郭を復元し、最後外側に金箔を貼り、金ピカの感じで人々に祀られていることが多いです。
六体(名?)の肉身菩薩を全部紹介することが出来ませんが、この前、私は、台北市北投区の安国寺に訪れ、③番目の瀛妙法師を参拝しましたので、③番目の瀛妙法師の方について紹介していきたいと思います。
(余談ですが、⑥番目の釈開豊は、この前の記事で紹介したことのある、精神病患者収容施設「龍発堂」の創始者であり、現在も龍発堂内に祀られています。それに関しては「龍発堂」の記事を参考してください!)
瀛妙法師の「肉身菩薩」をお参りに!
瀛妙法師の「肉身菩薩」が安置されている安国寺(2017/10/9 撮影)
安国寺は、元々「慈善堂」と呼ばれ、最初は瀛妙法師によって建立された寺院ですが、現在は台湾の大きな仏教団体、仏光山の末寺に入り、寺院の建築なども色々立て直ししていました。安国寺の本堂では釈迦如来、観音菩薩、地蔵菩薩が祀られ、瀛妙法師は別室の二階に祀られる。毎月の例祭では、当寺の僧侶と信者を中心に二階で金剛経を唱えるという。安国寺の肉身菩薩は普段は予約しないと拝観できませんでした。私は最初知らなくて、予約なしに行き、一回断られましたが、運がよく、丁度担当の尼さんと出会いましたので、特別にお参りさせて頂きました。(中は撮影禁止でした!)
別室の二階に祀られる瀛妙法師の像は博物館に展示されたような大きなガラスの中にあり、金ピカの姿で赤と黄色の袈裟を履いています。周りには生前に使っている木魚、数珠などの仏具、修行の際に用いていた金剛経の経本などが展示されています。お寺よりも、むしろ人物記念館の雰囲気でした。
尼さんの話によると、開棺する際に、瀛妙法師のご遺体の舌が長く垂らしまして、仏教の言葉では「広長舌相」を呈し、非常によいとされています。(但し、現在では舌が見えず、口が閉じているままで、趺坐をしている様子です。)
出典写真リンク:●
出典写真リンク:●
趺坐のままで亡くなった瀛妙法師は、生前自分の遺体処理について述べなかったのですが、後に後継者であり娘でもある明定法師の夢枕に立ち、特別な「轎棺」(轎は「駕篭」のことを意味します)という棺で趺坐のままで埋葬して欲しいと云い出したといいます。すると明定法師はあちらこちらで業者を探し、ある棺を作る店の中年女性が設計図を安国寺に持ってきてきました。それは、まさに明定法師の夢の中にみた「轎棺」のようでした。その女性は、金色の光に包まれたお坊さんが変な駕篭に乗せている姿をみて、そのモチーフでこの設計図を描いたといいます。そして、瀛妙法師の遺体を「轎棺」に乗せて境内で土葬をしました。亡くなった十年目、骨を拾い改葬しようとする時(※台湾では、昔土葬が多く、6年目から12年目の間に骨を拾い、改めて骨壷の中に入れて埋葬する風習があります)、棺を開けた途端から白檀の香りが漂っていて、棺の中には琥珀の色を呈した瀛妙法師の遺体があります。この瑞相をみて、現場にいた人は瀛妙法師の夢の中の要求、即ち「轎棺で埋葬して欲しい」こと、を思い出し、それを法師は肉身で成道しようとすることに間違いないと推測しました。後に防腐の処理や外見の復元などを施し、寺内で「肉身菩薩」として祀られるようにしています。
まだまだいる「肉身菩薩」
また、台湾大百科には書かれていないですが、上記した6名の僧侶以外、他にも「肉身菩薩」になった僧侶が存在します。例えば、3年の坐缸を経て2000年の際に安座した女性の肉身菩薩、「貢噶法師」はその一人です。彼女はチベット仏教の僧侶で、95歳で亡くなり、現在は台北の「貢噶精舎」に安置しています。
さらに、「肉身菩薩」になることは仏教と限らず、道教や台湾の民間信仰関わる人もミイラになる事例があります。その中に最も有名なのは「柯象」です。
「柯象」は一体どんな人、いつ、どのようにミイラになったのか、はっきり分かりませんでした。地方の言い伝えによると、1871年の雲林(台湾中南部)柯象という人が台南からある仏像を持ってきまして、その仏像は非常に霊験で、地元の人々に信仰されていました。そして、1879年亡くなる直前柯象信者に、自身の遺体を小部屋に閉じ込み、そして柴で百日を燻製することを要求し、そうすると、仏になれるという。また、もう一つの説において、柯象は奇病で亡くなり、その弟は彼の祀られたい遺言に応じて自家の庭で土の窯を堀り、遺体を安置し、百日を経ったら神になったといわれました。
その後「柯象」が徐々に北極星の神、「玄天上帝」と見なされました。如何なる経緯でこうなったのかは不明ですが、現地で日本の植民地支配を反抗する「土庫事件」と関連することによって、「柯象」が有名になります。
明治11年の際に、「柯象」を祀っている寺廟の関係者が、玄天上帝(柯象)からのメッセージを受けました。その内容は、関係者の一人である黄朝は、日本を倒して台湾の国王になるべきだという。従って、寺廟関係者と信者を中心に一揆を起こそうとしたが、情報のリークで最終的に失敗になりました。その後、関連する「犯人達」が捕まえまして、「柯象」のミイラも「犯罪証拠」として、警察に没収されました。その後、「柯象」のミイラは寺廟から離れまして、警察学校で人体模型と共に「教材」になったり、博物館の所蔵品になったりとして、長い間地元から離されていました。
2009年、師範大学台湾史研究所の院生が「柯象」を主題に研究を展開している際に、「柯象」が曾て祀られた雲林の北極宮に聞き取り調査をしました。それを機に、地元の信者さんが長い間行方不明の神様の所在(国立台湾博物館)を知ることになり、大変感激したそうです。2011年9月20日、国立台湾博物館と北極宮の協力によって、「柯象」の「帰省」が始まり、所有権は博物館で有りながら、北極宮に9ヶ月間の展示を貸出ました。(2012年ー2013年の間、博物館が特別展示会を開催しました)
ただし、その後、「柯象」をめぐって「その所有権を地元に帰すか、帰さないか」と問題で両方がややギクシャクし、「柯象」も博物館と北極宮との間を行き来しています。地元の人々は議員さんに頼んで、政治的な力を介して人々の注意を喚起しようとし、地元に返すべきだとのべました。他方、博物館側にとって「柯象」は台湾人にとって、重要な歴史材料として保存しては行けないの立場です。
即身仏・肉身菩薩のミイラは、大事しなければいけない所蔵品(モノ)として存在すべきか、それとも地元での信仰対象(カミ)として存在すべきか
色々考えるべきとこえろがあるでしょう。
参考文献
- 堀一郎、1965、「湯殿山系即身仏(ミイラ)とその背景」、『堀一郎著作集 第二巻』
- 内藤正敏、2010、「出羽のミイラ信仰--飢餓の宗教 即身仏」、『歴史読本』
- 江燦騰、台灣大百科:戰後台灣的肉身菩薩崇拜 (http://nrch.culture.tw/twpedia.aspx?id=26284)
- 簡克勤、「國立台灣博物館收藏文物「柯象」與土庫事件研究」、國立台灣師範大學台灣史研究所碩士論文
- 李金賢、2013、「進出博物館之間: 文物歸還與木乃伊柯象」、『國立臺灣博物館學刊』
読者の方を大募集しております。興味を持っていただけた方は、是非、下のボタンをポッチッと押してくださると嬉しいです!!
↓↓↓↓↓↓
↑↑↑↑↑↑
台湾の『君が代』ー『君が代』を歌う祖母ー
こんにちは。台湾出身、日本在住のキャロルです。今回は、台湾における「君が代」のお話をしたいと思います。
【目次】
祖母が「君が代」を歌えるか、聞いてきた
最近、台湾にいる祖母から「日本の国歌歌えますか?私は小さい時勉強したことはあるんだけど、今すっかり忘れてしまったよ。もう一度聞きたいね。」と、言われました。
台湾出身の祖母は小学生の頃、日本の植民地時代の教育を受けたことがありますので、たまにその時の話を私に話してくれます。
ところが、祖母の「君が代を歌ってほしい」との、お願いに応えられることができませんでした。日本に留学しても、野球などの国際試合を鑑賞する習慣はあまりなかったので、ちゃんと日本の国歌を聞く機会がなく、「君が代」について私は曖昧な記憶しかなかったからです。
歌詞を見てみても、
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
こけのむすまで
…なんとなく意味がわかるような、わからないなっていうのが最初の印象でした。
これを機に、辻田真佐憲の著作『ふしぎな君が代』を読み始めました。
皆様は多分「国歌」を聞いたり歌ったりする経験がありますが、国歌はどのように国を代表する歌になるのかにつきまして、知っている人は比較的少ないでしょう。『ふしぎな君が代』は「なぜこの歌詞」、「誰が作曲」、「いつ国歌になった」、「いかに普及した」、「どのように戦争を生き延びたのか」、「なぜいまだに論争的になるのか」などの問題から発し、詳しく、かつ分かりやすい文章で「君が代」の巡る歴史を解説しました読み応えのある著作です。
「君が代」形成を知る
「君が代」が国歌になる経緯は、意外とその場しのぎのものだったようです。
1869年英国王子アルフレッドの訪日に伴い、外交の礼儀として国歌の演奏が必要となりました。英国の国歌「God Save the Queen」に対して、それまで国歌の概念ですらなかった明治新政府は、悩んだ挙句、古歌「君が代」に目をつけます。
「君が代」は江戸時代、将軍家の元旦の儀式で使用された歌でしたが、「君」を天皇の意味でとれば、天皇の万歳を寿ぐための歌にもなるため、国歌の歌詞として提案しました。歌詞の案が受け入れた後、琵琶歌「蓬莱山」の一節を用いて、洋楽の形式で譜面を起こし、君が代の「原型」を作り出しました。
急いで作った歌なので、歌詞とメロディーが合わない問題が後に指摘されます。この問題に対応し、宮中の雅楽の伶人に願い、新たな旋律を作りました。その後、ドイツの海軍楽教師によってアレンジを加え、現行の「君が代」が完成しました(本当に大雑把ですみません、興味のある方はぜひ『ふしぎな君が代』を読んでください!)。
ちなみに、外交の場として使用された以前、古歌「君が代」もまた様々な文学作品や謡曲に登場したことがありまして、統治者の治世が長く続ける歌以外、健康長寿を願う歌、めでたい歌として捉えられました。
現行する「君が代」が作り出した後、別の曲や歌に変更する模索はありましたが、1893年「祝日大祭日歌詞竝楽譜」の公布によって、君が代が実質上の国歌になり、小学校でも歌えるようになりました。
台湾の「君が代少年」ー植民地支配と『国歌』ー
第二次世界大戦の幕開けと共に、「君が代」を歌うことも、愛国の象徴として捉えられるようになりました。
一例として、1942年に改定された『初等科国語三』の教科書に登場したた「君が代少年」の話です。
少々長く、古い表現もありますが、全文をここで掲載します。
君が代少年(出典)
昭和十年四月二十一日の朝、台湾で大きな地震がありました。
公学校の三年生であった德坤という少年は、けさも目がさめると、顔を洗ってから、うやうやしく神だなに向って、拝礼をしました。神だなには、皇大神宮の大麻がおまつりしてあるのです。それから、まもなく朝の御飯になるので、少年は、その時外へ出てゐた父を呼びに行きました。
家を出て少し行った時、「ゴー。」と恐しい音がして、地面も、まはりの家も、ぐらぐらと動きました。「地震だ。」と、少年は思ひました。そのとたん、少年のからだの上へ、そばの建物の土角がくづれて来ました。土角といふのは、粘土を固めて作った煉瓦のやうなものです。
父や、近所の人たちがかけつけた時、少年は、頭と足に大けがをして、道ばたに倒れてゐました。それでも父の姿を見ると、少年は、自分の苦しいことは一口もいはないで、「おかあさんは、大丈夫でせうね。」といひました。
少年の傷は思ったよりも重く、その日の午後、かりに作られた治療所で手術を受けました。このつらい手当の最中にも、少年は、決して台湾語を口に出しませんでした。日本人は国語を使ふものだと、学校で教へられてから、徳坤は、どんなに不自由でも、国語を使ひ通して来たのです。徳坤は、しきりに学校のことをいひました。先生の名を呼びました。また、友だちの名を呼びました。
ちゃうどそのころ、学校には、何百人といふけが人が運ばれて、先生たちは、目がまはるほどいそがしかったのですが、徳坤が重いけがをしたと聞かれて、代りあって見まひに来られました。「先生、ぼく、早くなほって、学校へ行きたいのです。」と、徳坤はいひました。「さうだ。早く元気になって、学校へ出るのですよ。」と、先生もはげますやうにいはれましたが、しかし、この重い傷ではどうなるであらうかと、先生は、徳坤がかはいさうでたまりませんでした。徳坤は、涙を流して喜びました。
少年は、あくる日の昼ごろ、父と母と、受持の先生にまもられて、遠くの町にある医院へ送られて行きました。その夜、つかれて、うとうとしてゐた徳坤が、夜明近くなって、ばっちりと目をあけました。さうして、そばにゐた父に、「おとうさん、先生はいらっしやらないの。もう一度、先生におあひしたいなあ。」といひました。これっきり、自分は、遠いところへ行くのだと感じたのかも知れません。
少年は、あくる日の昼ごろ、父と母と、受持の先生にまもられて、遠くの町にある医院へ送られて行きました。その夜、つかれて、うとうとしてゐた徳坤が、夜明近くなって、ばっちりと目をあけました。さうして、そばにゐた父に、「おとうさん、先生はいらっしやらないの。もう一度、先生におあひしたいなあ。」といひました。これっきり、自分は、遠いところへ行くのだと感じたのかも知れません。
それからしばらくして、少年はいひました。「おとうさん、ぼく、君が代を歌ひます。」少年は、ちょっと目をつぶって、何か考へてゐるやうでしたが、やがて息を深く吸って、静かに歌ひだしました。「きみがよは,ちよに,やちよに」
徳坤が心をこめて歌ふ声は、同じ病室にゐる人たちの心に、しみこむやうに聞えました。「さざれ,いしの」小さいながら、はっきりと歌はつづいて行きます。あちこちに、すすり泣きの声が起りました。
「いはほとなりて,こけの,むすまで」終りに近くなると、声はだんだん細くなりました。でも、最後まで、りつばに歌ひ通しました。君が代を歌ひ終った徳坤は、その朝、父と、母と、人々の涙にみまもられながら、やすらかに長い眠りにつきました。
明らかに皇民化政策の宣伝ですが、最後のシーンは丁寧な筆致で描かれています。上手な表現だなと思いました。これを用いた授業を、日本をはじめ、台湾、韓国、中国、シンガポール、マレーシアなど、日本の植民地支配の下の小学生が、勉強したのです。内容も、若干真実性を疑われそうな記述はありましたが、德坤少年は「詹德坤」という実在した男の子で、台湾の北西部の苗栗に住んでいまして、1935年の大震災で亡くなったことも事実でした。
陳其澎の論考によると、1935年4月21日、震度7.1の地震によって、台湾の中部地域は3千人以上がなくなり、詹德坤もその一人でした。震災後の三日目、詹德坤は重傷して、意識不明な状態で入院した。校長が生徒たちの見舞いに来る際に、詹德坤がいきなり「君が代」を歌い出し、歌い終わらないで亡くなったという事件が発端でした。
1936年4月23日、詹德坤少年の一周忌に、社会からの寄付によって德坤少年の等身大銅像が建立され、開幕式を行いました。その後、その小学校の生徒たちは、登校と下校の際では銅像に敬礼することが要求されました。また、命日の際には日本の僧侶を銅像の前に招いき、校長、行政、詹德坤の家族、学校の教師や生徒たちは、みんな儀礼を参加するといいます。
亡くなった7年後、詹德坤は愛国の模範的な「君が代少年」として日本の教科書に登場し、海を渡って知られるようになりました。
この銅像の後日談ですが、苗栗の大学が主催したイベントで、その後の德坤少年像の行方について以下ことがわかりました。
・政治関係で、日本敗戦以降銅像は撤去されました。
・銅像は詹德坤の母と姉によって実家に持ち帰られ、重くて不便で、通行人に怖がられるため、その銅像を売ってしまいました。得たお金を使ってポンプを買い、「まるでお兄さんが家族のために水を運んでくれたような」と、詹德坤の弟が言ったそうです。
「君が代」を歌う祖母
最後に、再び私の祖母の話ですが、
日本の国歌が聞きたい祖母のために、その後私は「君が代」でyoutubeで検索をかけました。歌を聞いた途端、祖母は歌詞に沿って「君が代」を歌い出しました。
「君が代」は彼女にとって、国の歌や日本を代表する歌というよりも、むしろ幼いころを思い出す一つの鍵なのでしょう。
参考文献
陳其澎. “框架” 台湾: 日治時期殖民現代性的研究 台灣文化研究学会論文集, 2003.
三輪昭子、「現代台湾から考えた日本」、『地域社会デザイン研究』2016
運営者追記
辻田真佐憲さんの本は、運営者のタカギスグルも大好きです。彼の著作は、面白く、かつ恐いと感じさせる力があります。歴史を知ることで、今を知ることができる。その媒介になってくれるような、力のある研究家だと思います。ぜひ読んでいただきたい、と思っています。
(自宅書斎にて、辻田氏著作を並べてみました。)
読者の方を大募集しております。興味を持っていただけた方は、是非、下のボタンをポッチッと押してくださると嬉しいです!!
↓↓↓↓↓↓
↑↑↑↑↑↑
腐女子的、政治解釈ー台湾の政治には、喧嘩も、愛もあるー
台湾の国会や議会と聞いて、みなさんは何を想像しますか?
日本の皆様の中には、「国会乱闘」が思い出す方も多いのではないでしょうか。
これは今年の7月、政府の新しい大規模投資計画、「前瞻基礎建設計画」の予算案の審議を行う際に、野党の国会議員たちを中心に会議をボイコットし、最終的に「水風船大戦」になった時の写真です。非常に賑やか(笑)
写真出典:2017/7/21聯合新聞網報導,2017/7/14報導
ところが、今年9月、台湾の政界は、台湾の腐女子達の妄想の対象になったのです。それは、一時期に大フィーバーになりました!
このフィーバーを少し紹介していきたいと思います。
【目次】
2人の政治家
まずは妄想の対象に当たる主人公達(?)やエピソードを紹介します。
それは、2人の政治家です。
①賴清德氏
現・行政院長、元・台南市長の賴清德氏 (写真出典:聯合新聞網)
1959年生まれ、元医師、民進党。
立法委員(日本の国会議員のような位置)などを歴任。
2010年始めて「台南市市長」に当選し、2014年再び当選をしました。台南市長の任期は4年で、2018年まで市長としての任期がありましたが、今年(2017年)の9月5日から総統の命令を受け、行政院長(日本の官房長官のような位置)になり、9月8日に正式に就任しました。
②謝龍介氏
現・台南市議員の謝龍介氏(写真出典:中天快點TV )
1961年生まれ、台南出身、国民党。
2002年始めて「台南市議員」に当選し、後に党内の文化宣伝委員会の発言人になって、色々を経た後、2010年、2012年、2014年、2016年の際に連続台南市議員に当選し、現在も台南市議員を勤めています。
話が上手で、いつも流暢な閩南語(広く使われた方言、台湾語と称する時も)を使用しまして、面白い話し方はテレビ的に映りが良く、知名度の高い議員です。
謝龍介氏は台南市議会で当時の市長賴清德氏を質疑答弁の時、二人対抗している姿も時々メディアに取上げられました。
事件前夜、謝氏の猛攻の始まり
簡単に二つの大事件(?)を紹介します。
- 2016年年末、福島県など五県産の食品輸入規制をめぐる答弁につきまして、12月15日、謝龍介氏は人形劇(布袋戲)のキャラクターの人形を持ち、賴清德氏へ質疑しました(ネットニュースはこちら)
ぬいぐるみを会議の中に持ち込むことによって、メディアからの注目の浴びました。 - 2017年5月19日、議事がうまく進めるために、謝龍介氏は故郷台南東山産の蜂蜜を持参しまして、賴清德氏との乾杯を求めます(ネットニュースはこちら)
……他にもありますが、まず、人形劇(人形)と蜂蜜を覚えて頂ければよいと思います。今年9月までに起きた、2人のフィーバーの以前から、2人の関係、といっても謝氏による執拗な攻めが台湾の政治の話題になっていたのです。
それは、愛の告白か。フィーバーが起こる。
そして、ここでフィーバーのきっかけを述べます。
それは9月5日、賴清德氏を中央政府に移動させる人事命令です。突然の命令に対して、記者達は色々な関係者に取材をしまして、市議会ででのライバル(?)とし謝龍介氏も取材されます。
記者の取材に対して、謝龍介氏はいつものように皮肉な口調で賴清德氏を揶揄した後、以下のように語り出しました。
図像出典:A-More (日本語翻訳)
彼の発言は、まるで愛の告白のようで、インターネット上で熱烈に流行り始めました。
そして、翌日の賴清德氏の送別会で、謝氏も突然に姿を現し、皮肉な言葉を連発しながら、人形劇の人形と蜂蜜を持参しまして、お別れのプレゼントをお送りしました(ニュース影像)
個人的には、賴清德氏が人形の手から蜂蜜を受け取って、人形に先に握手し、のちに謝龍介氏本人と握手するシーンは良かったです!
2人は今までの絡みから、世間(ある一部の人たち)は、存分に妄想し、想像力たくましく、ニュース映像などを素材にした二次創作も数多く生み出されることになります。
6年間の付き合いのある「ライバル」同士、与党と野党の関係、これから離ればなれになる切なさ……なぜか二人のおじさんが萌要素満載でした!
あと、たぶんですが、謝氏の名前が、龍介で、すこし日本人ぽいというのもあったかもしれません。
そして、二次創作が始まる
そして、幾つかの創作のリンクを下に掲載しています。
興味のある方は、「一生監督你一人」と、画像検索してみてください!!
台湾内部のネタなので、やや理解しづらい部分がありますが、興味のある方はみてくださいね。
●まとめサイトが数名の絵師さんが創作した漫画を掲載しています
●小次郎氏が編集した影像:「君の監督」予告|一生監督你一人
映像は、ほぼ台湾最近有名な政治家たちで、日本人の皆様は存じてない方も多いと思いますが、『君の名は』の予告をいじって、あっているような、あっていないようなところは、実に不思議です。
●Robin Yang氏が編集した影像:腐城小幸運 清徳對龍介的回應
シンプルな映像でラブラブな感じがします。最初のナレーションを簡単に翻訳すると、「時間を経ってから知ったことだ。女の子が『もう、あなだなんか大嫌い!』をいった時に、本当は嫌いという意味ではなく、彼女はあなたのことを思っているから。」…という鳥肌が立つような言葉でした。
そして、本人も便乗する!
このフィーバーに、謝氏本人も便乗して、ポスターを製作しています。
(https://udn.com/news/story/7326/2733278?from=udn-relatednews_ch2より)
もうなんだか、わかりませんねw
国内の政治事情もあり、日本の皆様は分かりにくいかもしれませんが、今回は台湾政治界のBLフィーバー(?)について紹介しました。
台湾の腐女子たちの進化も、まだまだ続くのでしょう。
台湾のゲイコミュニティを描く『孽子』〜1970年代の青春と同性愛〜
2017年5月24日、台湾では大法官会議において、同性愛者の結婚制限は違法だという判決を下りました。反対する人々も多くいましたが、同性婚を社会的に認めるに大きな一歩としてとらえられています。
今回は1970年代台湾のゲイのコミュニティを描いた小説、『孽子』(げっし)(1983)を紹介していきたいと思います。
『孽子』(げっし)は台湾では、有名な作品です。
作者白先勇の文学的な評価が非常に高く、1983年に出版され、1986年の映画化、2003年のドラマ化が反響を呼び、台湾においては、若者から年寄りまで知っている作品だと思います。
2003年のテレビドラマの宣伝写真。(蓮の花を持っているのは、「阿鳳」という伝説のキャラクターです。)
変な順番ですが、あらすじに入る前にまず小説の冒頭部分を読んでみましょう!
3ヶ月と10日前、異様に晴れたある朝、父は私を家から追い出した。陽射しはうちの路地を真っ白に照らし、私は素足で一生懸命に外に逃げ出した。路地口に着き、私は振り返って、後ろから追いかけた父を見た。彼の巨大な体はゆらゆら揺れ、片手で昔中国大陸で団長だった際に使った自衛銃を振り回し続けた。斑らの髪は立っているようにもみえ、血走った目が怒りの炎を発した。彼が、悲しみと、怒りに震えたしわがれた声で叫んだ:畜生!畜生!、と。
『孽子』1983(1992)、P.1
この冒頭部分で、読者を作品の世界観に引き込みます。
今、手元は中国語のバージョンしかないので、自分勝手に訳しました。
ちゃんとした訳文を見たい方はぜひ日本語の訳を参照してください
あらすじ
主人公は「李青」という男子高校生です。
彼は学校で同性間の「不適切な行為」により、退学処分となりました。
先ほど紹介した冒頭の部分は、その退学を知らせを受けた父親が彼を家から追い出したシーンです。父に追い出された後、李青は数多く男性の同性愛者が集まる「新公園」(現在の「228記念公園」)を放浪します。彼のような若者達は、各々の夢や希望を抱きながら「新公園」に集まった中高年男性に体を売り生きていました。
「新公園」に集まった同性愛者達は、青春な匂いを放す若者もいながら、体が弛んだ男性もいたり、歳をとっている元俳優の老人もいました。
『孽子』は、同性愛を中心に取り扱った小説ですが、「恋愛」や「性」についての描写にはあまり重みをおいておりません(これは「恋愛」や「性」の方は重要じゃないという意味ではなく、むしろ普通すぎて、強調する必要がなかったかもしれません…)。その代わりに、冒頭であるように、家族、特に「父」との関係を丁寧に描いていきます。
「孽子」とは?
辞書を調べているところ、タイトルの「孽子」は二つの意味があります。
一つ目は、妾が産んだ、あまり愛されていない子の意味で、もう一つ目は、親不孝の子どもを指しています。
親に愛されていない子と、親不孝な子、「愛」を発する主体と権力関係は、一見真逆な立場ですが、不思議に物語に合致しています。
また、父との関係以外、母、兄弟との関係、「新公園」のコミュニティ内とコミュニティ外の人との関係など、主人公のアイデンティティの転換や感情を着目し、非常に細かく描写しています。
物語の舞台、「新公園」という場所
「新公園」は現在「二二八記念公園」に改名し、交通の中枢である台北駅から徒歩10分ー15分ぐらいの距離です。地下鉄(MRT)台大病院駅の4番出口から出たらすぐそばにあります。
「新公園」は、1908年日本植民地時代の時に建てられた台湾最初のヨーロッパ風公園です。1935年で行われだ台湾博覧会の会場の一部でもあります。国立台湾博物館もその中にあります。
元々新公園と呼んでいましたが、1996年の際に、「二二八記念公園」に改名しました。
新公園境内には異なる時期で建てられた建物がありまして、非常に興味深いところでした。その歴史は今後改めて書きたいと思います。『孽子』の中では、「新公園」のことを「王国」と呼び、以下のように描写しました。
我々の王国では、黒夜しかなく、白昼はなかった。…………我々の国境の端っこに、幾重にも重なった熱帯の樹々が植えられ、ミドリサンゴ、パンノキ、そして年をとって葉っぱが落ちそうなヤシが何層も纏わりついていた。道路沿いで毎日頭を振り回した大王椰子が、まるで緊密な柵のように、我々の王国を隠し、外の世界と隔絶させていた。…………
『孽子』1983(1992)、P.2
本当に熱帯的で、湿気と重みを感じさせる文章です。
1950年代あたりから、新公園や台北駅近辺などはすでに男性同性愛者などの出会いの場として利用されました。日本でいうところの「ハッテン場」というものでしょうか?
ただし、1970年代以前、「同性愛」という概念があまり知られなく、新聞においては「性的変態」、「人妖」(オカマ的なニュアンス)などで括りました。1970年代、「ゲイバー」のような交際場所がまだ盛んになってない時、新公園は男性同性愛者の間に、一つ有名な出会いの場でした。
他人との繋がりを求める際に、公園内で徘徊して、目つきや手つきなどを通して、相手を見出しました。
小説の中では、かなり独特な雰囲気を醸した新公園ですが、現在、ごく普通の公園の感じです。子ども達も園内で遊んだりして、栗鼠も鳩などの小動物も生息しています。本当に気軽に行ける場所なので、聖地巡礼(?)に興味のある方台北を訪ねる機会がありましたらぜひ(笑)。
1970年代の台湾に生きた若者たち
ここで非常に非常に大雑把に、台湾の歴史を振り返しましょう。
17世紀から、中国南部からの漢民族の移民が徐々に増加しました。
1895年、下関条約で台湾が日本の植民地になり、1945年までの50年間は日本の管下に入りました。戦後、中国国民党政府の管下に入り、中国国民党政府は台湾へ敗走することによって、中国各地から軍人や難民も数多く台湾に移住しました。
戦前から台湾に住んでいる人々(本省人)と戦後台湾に移住する人々(外省人)との間の軋轢は、長い間台湾の政治的問題になっています。
作者の白先勇の父、白崇禧は戦後から来た元将軍です。
彼は非常に有名で、国防部長(日本の防衛大臣に相当するポジション)を就任したこともあります。ちなみに、彼はムスリムだということも有名です!
生まれた環境にも関連し、白先勇のもう一つの有名な短編小説集『台北人』(1971)は、戦後、やむを得ず台湾に移住した外省人たちの心境を描いた物語の集大成となっています。
中国で家族、恋人を持ち、少年時代を過ごした彼らにとって、台湾での生活は窮屈で、常にどこかで喪失感を感じていました。
『孽子』の主人公の李青の父は、外省人の退役兵士で、いつも『三国志』を読んだり、軍人時代に配れられた銃の手入れをしていました。
中国こそ故郷の『台北人』世代(主人公の父など)と異なり、二代目の李青は台湾で成長し、中国のことについてあまり思い出がありませんでした。
主人公の李青のみならず、外省人の二代目の龍子も台湾(新公園)を帰る場所と認識しました。アメリカで10年間生活した彼は、最終的には、ここに戻ってきたのです。
また、主人公の友達、小玉、の父親は日本の華僑です。彼の父は、母の妊娠期間中に帰日しまして、それから音信不通になりました。小玉の願いは日本に行って父を探し出すことです。
『孽子』の登場人物たちは、『台北人』世代と違って、過去の思い出や栄光に浸ることはなく、いろいろ試しながら、1970年代の台湾で精一杯に生きています。
少し前提知識が必要なので、いきなり小説を読めるかどうかに自信のない方は、2003年のドラマ版を視聴した方が良いかもしれません。小説内容や設定は幾つか違う部分がありますが、あらすじや物語の設定は、わかりやすくなっています。
ドラマの中の一つ面白いところは、楊金海(上図、右から二番目)や老周などの年寄りのゲイの方は、原作と異なり、結婚していた(離婚や死別ですけど)設定です。結婚していましたので、娘も持っていまして、元奥さんや娘との関係も注目するポイントです。ドラマの中に、「正常」の世界から隔離した王国というよりも、むしろ主流の価値観からの凝視、そして理解しようとする目線が含まれているでしょう。
繰り返しになりますが、『孽子』は単なる禁忌された恋愛を謳ったものではなく、むしろ「新公園」にいる同性愛者のコミュニティの様子を描いた作品だと思います。作者の白先勇も、「『孽子』は同性愛者を描くもので、同性愛そのものではなかった。本の中にはあまり同性愛の描写がなく、登場人物は圧迫を受けた人間です。」と述べました。
同性結婚の容認が進んでいる一方、改めて『孽子』を読み返すのも良いかもしれません。
同性愛については、明治期の鹿児島県(薩摩藩)の男色文化について記事を書いております。どうぞ、ご覧くださいませ!!2018年の大河ドラマ「せごどん」についても、触れています!
主な参考文献
國立中央大學 歷史研究所 修士論文: 孽子的印記—臺灣近代男性「同性戀」的浮現
読者の方を大募集しております。興味を持っていただけた方は、是非、下のボタンをポッチッと押してくださると嬉しいです!!
↓↓↓↓↓↓
↑↑↑↑↑↑
戦後最大の奇書『家畜人ヤプー』をめぐる二人の《作者》の物語
戦後最大の奇書と呼ばれる『家畜人ヤプー』を、みなさんは読んだことがありますか?わたしは、この作品の「見ちゃいけないものを見てしまった、でも、また見たい」というような感覚に圧倒されてしまいました。
「『家畜人ヤプー』の作者の正体は、誰であるか」は、現在でも意見が分かれるもののようですが、今回の記事では、《ご本人たち》が残した文章に従い、「天野=沼」説をまとめています。
【目次】
『家畜人ヤプー』とは、
1956年から1958年に『奇譚クラブ』で連載が開始され、1970年に単行本化
2000年後の宇宙大帝国では、日本人の後裔ヤプーが、白人女性の慰み物となっている。倒錯した性の世界、マゾヒズムの極致を描き出した作品
(フィアンセが他の男と婚約したするのを椅子として見届ける主人公。漫画版より)
家畜人ヤプー(1) 宇宙帝国への招待編 (石ノ森章太郎デジタル大全)
三島由紀夫や寺山修司ら、多くの著名人から絶賛を受け、作家阿刀田高は、
確かに猟奇的な面はあります。しかし、その想像力の度外れ方は感服するほかない。私小説が主流をなす日本文学において、スケールの大きさでは他を寄せつけません。私なんか、世界に堂々と誇っていい書だと思いますよ。(『鳩よ』1988 20頁)
と、かなりの評価をしています。
『家畜人ヤプー』の《作者》
この『家畜人ヤプー』の作家沼正三は、覆面作家で、1970年の出版以来、作者沼正三の正体は一体誰なのか、人々の関心を集めていました。
徐々に、「誰が沼正三なのか」から、「彼が沼正三ではないか」というように作者の正体に迫っていくことになります。そして、高等裁判所判事倉田卓次、そして編集者天野哲夫の二人に行き着くことになるのです。
前回の記事では、1982年に突如としてマスコミから「作者」としてでっち上げられてしまった『家畜人ヤプー』事件を倉田卓次氏の目線から、まとめてみました。
(当時の雑誌記事、大々的なスクープとして扱われていたことがわかる。筆者所有)
今回の記事では、1983年に「自分こそが、覆面作家沼正三である」と告白した天野哲夫氏の目線から、『家畜人ヤプー』事件について考えてみたいと思います。
天野哲夫の略歴
天野哲夫は1926年3月福岡県生まれ、商業学校卒業後に満州特殊鋼鉄株式会社に就職し、満州へ渡る。徴兵に伴う帰国後、佐世保警備隊世知原分隊に所属し、福岡で8月15日を迎える。そして戦後、肺結核で療養生活に入るが、1949 年に家族を追って上京し、療養生活 を送りながら『奇譚クラブ』などの風俗雑誌に原稿を投稿して生活費を稼いだ。 1967年に新潮社に中途入社し、校正や、編集者として働いてきた天野は本業の傍らで複数の筆名での連載を続けつつ、『ヤプー』の単行本が刊行される1970年頃から、沼の代理人としての活動を開始。
天野哲夫は、こうした自分自身の経歴と、作者であると報じられた倉田卓次の経歴を比較し、以下のように述べています。
満蒙荒蕪の山奥に流れ住んだ青春の一時期は、誰も検索できぬ靉靆たる彼方に霞み去っている。つまり、私はいかがわしい人間なのである。ニセモノとしての侮蔑を見に受けるは、マゾヒストとしての立場からは一種のこれが法悦ともいえる。(『潮』1983 151頁)
しかし、倉田卓次に累が及ぶとなれば、事情が違ってくるとし、自分が名乗り出した理由を説明しています。
天野哲夫の述懐では、倉田卓次が作者とされたのは、倉田が、典型的書斎人であり、私とは、格が違う、彼に書けても私には『家畜人ヤプー』のような作品は書けないだろうと、思われたことが、この『事件』の原因があると考えているようです。
覆面作家・匿名である事の意味
天野哲夫本人が、 作者の正体を明かさない意味について、『家畜人ヤプー』の単行本が刊行された1970年に、雑誌に沼正三の代理人として、思いを綴っています。
作者が誰であろうと、問題は作品それ自体にすべてがかかっていることであり、作者は果たして誰か!なぞの覗き趣味は余計なことである。(『新評』1970 121頁)
そして、「沼正三は私である 」と名乗りをあげた1983年の記事では、『奇譚クラブ』で親交を深めた倉田卓次をはじめ、先輩畏友から意見や知恵を頂いたとして、『家畜人ヤプー』の文責は、私自身にあるとしながらも、
躊躇するものがあった。なべて文なるもの、盗作ならざるはなし。実際、沼正三なる名は私一人のものではないという意識が強く働いた。これは仮設人格である。(中略)作者不詳、生みの親を知らずして、なおかつ子はあの如く、すくすく一人歩きするのではないか。親離れ子離れの、斯くの如き作品よ、生まれ出でよかし、の自らの待望もあった。(『潮』1983 153頁)
沼正三は、あくまでも仮設人格であり、それは知識や意見を提供してくれた人々の影響を強く受けたものであったことが伺い知れます。複合的に、人工的に作られた作者像が、沼正三であったのです。
天野哲夫と沼正三の対話
このような、天野哲夫と沼正三の関係性について、良い事例となるものがあります。それは、天野哲夫と沼正三の対談です。奇妙な話ですが、《二人》は、対談しているのです。
これは、雑誌『伝統と現代』(昭和45年10月号)「対談『家畜人ヤプー』における日本神話」としてまとめられています。この対談では、沼がSM作品やSF作品の知識から『家畜人ヤプー』におけるメタファーについて説明しているのですが、聞き手の天野哲夫がその作品を知らない、読んでいないなどの箇所が目立ちます。
この対談では、知識量においては、沼は天野よりも博学で、鋭い洞察力を持つ人物であるように描かれています。(この対談は興味深いものであるのですが、この対談については特別に記事を書きたいので、割愛いたします。)
この対談の「対談後記」には、以下のような感想が述べられています。
沼正三氏と私との間は、折あるごとに触れてきたとおり、ありにも奇しき縁にて結ばれ、これを譬えて、"形影相伴う"といった形容そのままに、二人の間には口惜しいほどに互いの異論というものが生じない。もちろん、人相・風態ともにそれぞれ異った似もつかぬ風貌をし、趣味・嗜好、あるいは履歴・環境等の細部にわたって大篆・小篆の差異をまで否定するつもりはない。(121頁)
天野哲夫は、沼との対談は「最も典型的な馴れ合いのうちに進められ」、とても「心楽しいものであった」と振り返っています。
天野は沼とは、別の個人であることを意識しながら、沼の代理人をつとめることになりますが、 「自分が沼である」と名乗りだしてからは、徐々に沼正三名義での活動を本格化していきます。沼と天野が同化していく、といっても良いかもしれません。
二人の《作者》
『家畜人ヤプー』の作者を巡る問題には、倉田卓次と天野哲夫の二人のどちらなのかという問いと、そして、天野哲夫と沼正三は同一人物として扱うべきなのかという問い、という「二人の《作者》」の問題へと辿り着きます。
それは、メディアが作り出した作者像、人々の意見や期待を吸収することで巨大になった作者像、そして、もう一人の自分としての作者像といった、多面的な「沼正三」という存在のあり方を問うものとなっているのです。
『家畜人ヤプー』は、その作品そのものも面白いですが、作品の外側、作品に関わった人々を調べるのも面白い作品となっています。
《主な参考文献》
各雑誌の記事は、東京都世田谷区八幡山にある《雑誌の図書館》大宅壮一文庫で複写・閲覧したものです。みなさんも、気になる事件や出来事があったら、大宅壮一文庫に赴いて調べてみると、とても面白いですよ!!
阿刀田高 1988 「沼正三『家畜人ヤプー』」『鳩よ』昭和63年12月号
天野哲夫 1970「「家畜人ヤプー」代理人の証言」『新評』昭和45年8月号
天野哲夫・沼正三 1970 「対談『家畜人ヤプー』における日本神話」『伝統と現代』昭和45年10月
天野哲夫 1983「家畜人ヤプー贓物譚」『潮』昭和58年1月号
森下小太郎 1982 「倉田卓次判事への公開質問状」『諸君!』昭和57年12月号
【こんな記事も書いています!】
読者の方を大募集しております。興味を持っていただけた方は、是非、下のボタンをポッチッと押してくださると嬉しいです!!
↓↓↓↓↓↓
↑↑↑↑↑↑
Dunkirk Spiritって何? Brexit時代の映画「ダンケルク」
映画「ダンケルク」の公開が2017年9月9日に迫っています。
わたしは、シンガポールで一足早く、7月20日の公開初日に鑑賞してまいりました。
(シンガポールでは公開初日ということもあり、満席となっていました。)
今回の記事では、映画「ダンケルク」の舞台となった救出作戦の後のイギリスにおける「Dunkirk Spirit」という言葉の意味について考えてみたいと思います。
【目次】
映画のあらすじ
1940年、フランス北端ダンケルクに追い詰められた英仏連合軍40万人の兵士。背後は海。陸・空からは敵――そんな逃げ場なしの状況でも、生き抜くことを諦めないトミー(フィオン・ホワイトヘッド)とその仲間(ハリー・スタイルズ)ら、若き兵士たち。
一方、母国イギリスでは海を隔てた対岸の仲間を助けようと、民間船までもが動員された救出作戦が動き出そうとしていた。民間の船長(マーク・ライランス)は息子らと共に危険を顧みずダンケルクへと向かう。英空軍のパイロット(トム・ハーディー)も、数において形勢不利ながら、出撃。こうして、命をかけた史上最大の救出作戦が始まった。果たしてトミーと仲間たちは生き抜けるのか。勇気ある人々の作戦の行方は!?(http://wwws.warnerbros.co.jp/dunkirk/#aboutthemovieより引用)
映画「ダンケルク」では、 海岸で救助の船を待つ兵士、飛行機で戦うパイロット、そしてイギリスから所有している船で助けに向かう家族、陸・海・空の三つの視点で描かれています。しかも、2時間の映画ですが、兵士の時間軸は1週間、パイロットは1時間、家族は1日と異なる時間軸で進みます。彼ら、それぞれの行動が一人一人の命に繋がっている、と強く印象付けられるものとなっています。
しかも、セリフはほとんどなく、演者の表情、そして彼らの陥っている窮地が全てを物語っているという演出方法でした。歴史的な事件で「ネタバレ」を気にするのも変ですが、この記事ではあえて、この映画の舞台となった作戦後のイギリスにおいて「Dunkirk Spirit」のもつ意味について書いていきたいとおもいます。
映画を見る前に読みたい本!
映画「ダンケルク」に興味がある方は、以下の洋書をおすすめします!!
史実からダンケルク救出作戦に迫る内容ですが、何よりも、この本の冒頭は、クリストファー・ノーラン監督のインタビューとなっています!!映画好きの方、歴史好きの方は要チェックです!!
Dunkirk: The History Behind the Major Motion Picture
- 作者: Joshua Levine
- 出版社/メーカー: William Collins
- 発売日: 2017/06/29
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログを見る
Dunkirk Spiritについて
映画「ダンケルク」が描いた救出作戦の、その後のイギリスにおいて、Dunkirk
Spiritという言葉が、いかなる意味を持つ言葉となったのでしょうか。
Dunkirik spiritとは、辞書によって意味合いが若干違うようですが、The Cambridge Dictinaryによりますと、
When a group of people who are in a bad situation all help each other.
とあります。つまりは、「困った時にお互い助け合う」という意味になります。
ちなみに、リーダーズ英和辞典第三版では、「ダンケルク魂、危機における不屈の精神」と雄々しい表現になっています。
Dunkirk Spiritが実際に使われるようになったことが確認できるのは、作戦の1年後あたりのようです。英紙Manchester Guardianの1941年7月11日の記事で、Dunkirk Spiritが使用されており、戦時下に週7日で働く工員たちにたいしてDunkirk Spiritと表しています。この場合では、「銃後の」という意味を包含しているものですが、戦後、ご近所での助け合いや、事故などに巻き込まれた時にも、助け合いの精神を意味する語として使われていきました。
しかし、そんなDunkirk Spiritにも、大きな岐路やってきます。
それは、イギリスのEU離脱に関する国民投票でした。そうです。BrexitがLeave派(離脱派)によって、叫ばれる中、Dunkirk Spiritも、この論争の最中にひきづり込まれることになるのです。
BrexitとDunkirk Spirit
2016年6月、イギリスではEU離脱に関する世論を問う国民投票を行いました。この時の離脱派と残留派の論争は、日本のテレビでも大き取り上げられましたので、覚えている方も多かいと思います。
この選挙活動において、Dunkirk Spiritが特別な意味を持つ言葉として用いられることになります。それは、離脱派によってでした。
資産家で、離脱派に多額の資金援助をしていたPeter Hargreavesが、「このEU離脱が、ナチスから逃れるため、フランスから撤退したダンケルクの作戦」と類似していることを強調し、いまこそ、Dunkirk Spiritの時である、と述べたのでした。
ヨーロッパ(EU)から、イギリスが撤退するべきであるというスローガンにDunkirk Spiritが用いられたのです。2016年の国民投票以後、Dunkirk Spiritは、以前のような「助け合い、不屈の精神」を意味するだけでなく、イギリスの孤立主義、ナショナリズムをも意味する言葉となってしまったのです。
そのため、映画「ダンケルク」が上映される際に、この映画は「Brexit以後の、Dunkirk」として注目を集めることになったのです。
それでは、映画において、Dunkirk Spiritがどのように描かれていたでしょうか。フランスやヨーロッパとの関係は?劇場に、足を運び、確認してみてくださいね。
【参考文献】
Dunkirk: The History Behind the Major Motion Picture
- 作者: Joshua Levine
- 出版社/メーカー: William Collins
- 発売日: 2017/06/29
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログを見る
読者の方を大募集しております。興味を持っていただけた方は、是非、下のボタンをポッチッと押してくださると嬉しいです!!
↓↓↓↓↓↓
↑↑↑↑↑↑
河童について勉強してみよう! めざせ!妖怪検定!⑥
「日本には、どんな妖怪がいますか?」と聞かれたら、恐らく「河童」と答える人は多いでしょう。
妖怪検定の中にも、「河童系」の妖怪という難関がありまして、地域によって似ているような名前の「河童系」の妖怪が非常に紛らわしいのです。
その恐ろしさを表すために、まず千葉県にある「国立歴史民俗博物館」(オフィシャルサイト:https://www.rekihaku.ac.jp/)がまとまった河童の異名のまとめについて見ていきましょう。
セゴ、カシャボ、カワタロウ…など、図の通り、地域によって「河童」に対する呼称も異なりまして、その性質も似ているようが、微妙に異なる部分があります。
久しぶりの妖怪検定に関する記事は、石田英一郎の『河童駒引考』を紹介し、妖怪検定ノートをまとめていきたいと思います。
その前、先に河童の特徴を少し紹介したいと思います。相撲が好き、胡瓜が好き、水辺に住む、人の尻子玉を取るなどの特徴は言うまでもないでしょう。
ここで妖怪検定に役に立つ3つの要点を取上げます。
そして、再び申し上げますが、受験したい方は、是非手元に『日本妖怪大全』を!!!
○河童は「川」だけではなく、山、海にもいます!
河童の漢字では「河」がついていますので、河辺に生息見えますが、河のみならず、山や海などにも河童系の妖怪が存在しています。
海にいる河童系の妖怪は、例えば『日本妖怪大全』に取り上げた小法師(頁310)、山の方は例えば木の子(頁254)などがあります。
そして、妖怪検定ノートの事例4の「カシャボ」、事例7の「エンコウ」など、季節によって、水辺と山辺で行き来する事例も幾つかあります。
○河童は馬を水に引こうとします!
河童は馬を水に引く話は数多く見られます。そして、流れとしては馬を水に引こうとする河童は失敗してしまいまして、何かのお詫びとして、魚や特別な薬などを馬の主に渡します(事例として、妖怪検定ノートの、項目3、項目8を参照お願いします!)。もしくはお詫びの文書を残す場合もあります。
○河童は信仰の対象でもある!
河童は人の尻子玉を取り、人を溺死させる伝説を有する一方、水難除けの祈願対象でもあります。事例として、妖怪検定ノートの項目2と項目7を参照お願いします。
そして、ここでは『河童駒引考』を簡単に紹介したいと思います。
『河童駒引考』は柳田國男(1875−1962)の『山島民譚集』に紹介した「河童駒引」の話を触発点され展開した論で、著者の石田英一郎(1903-1968)は人類学者、元々柳田國男の古稀記念論文として執筆をはじめました。
柳田國男の『山島民譚集』の初版は1914年に発行され、最初は500部のみ印刷し、親交のある友人達に送ったものです。そして、1942年の際に再版をしました。芥川龍之介1927年に発表された風刺小説、『河童』の中でも柳田の『山島民譚集』に触れています。
(芥川龍之介の『河童』、青空文庫でも読めますよ!)
『山島民譚集』の中に、柳田國男は「水の神の童子が妖恠と落ちぶれるに至った顛末」を解明したいため、地誌などから日本の河童に関する事例を網羅しました。そして、河童の正体の一つを猿と見なし、牛馬の保護者としての猿に関する信仰、そして水神への信仰と類似する河童の性質を取上げまして、馬を水に引き込もうとする河童の性質を論じていました。
それを踏まえ、石田英一郎の『河童駒引考』が、日本の歴史や民俗の中から「河童」の正体を見出すではなく、更に世界的な目線から、時空を超えて資料を取上げました。石田英一郎は柳田國男の提示した河童と水神との関係を踏まえ、考古学、歴史の資料を学際的に集め、そして、地域についても、中国、ヨーロッパなど広いユーラシアの事例を収集しました。水神、供犠として牛から馬への交替、そして猿と馬の関係など論じています。
河童の話はまさか世界的な展開に見えるのは、本当に不思議ですね!
それでは、妖怪検定ノートに入りたいと思います。
1. 水蝹(けんもん)(頁289)
- 地域:鹿児島県、奄美群島
- ガジュマルの林に住んでいる。おかっぱ頭、中に油がはいている。油をこぼれると死んでしまう。
- 夜になると火をつけて海岸に出る。相撲好き、目が鋭く顔は赤い。
- 夜道に人に化かす。昔南方に流れ着いた神と云われる。
2. ひょうすえ(頁616)
- 地域:九州
- 別名:兵揃、兵主、兵主部とも。
- 佐賀県武雄市、塩見神社、渋江氏を祀っている。その祖先は工匠の兵部大輔島田丸で、人形を造る秘法を使用し、春日大社を建設しました。そして、川に捨てた人形が河童になりました。
- 兵部大輔島田丸はそれを鎮め、以降河童は”兵主部”と呼ばれた。
- 水難除けの歌『兵主部よ、約束を忘るなよ 川立男 氏も菅原』
3. 一目入道(頁79)
- 地域:九州
- 別名:兵揃、兵主、兵主部とも。
- 佐渡、加茂湖
- 様子:頭の上に一つ大きな目。
- 馬にいたずらして、馬主に捕まえた。一目入道は毎日瑠璃の鈎に九州
- 別名:兵揃、兵主、兵主部とも。
- 魚を掛けることを約束した。ある日馬主がこっそり瑠璃の鈎を持ち帰って、その後魚がもらえなくなり、毎年の正月15日は馬主の家にいたずら。念仏を唱えて免れた。
- 集落(佐渡)に観音堂を立てた際に、瑠璃の鈎は仏像の白毫はめられた。
4. カシャボ(頁189)
- 地域:紀州(和歌山県・三重県南部)
- 河童(ドンガス、ガオロ)が冬になって、山に入るとカシャボになる。
- 様子:青い服、頭は芥子坊主、6、7歳の子どものよう、頭を振るとガチャガチャ音が鳴る。「火車」を意味する「ガシャグ」が語源の説もあります。
- 人の周りにやってくる(水鳥のような足跡)。牛や馬に害を加えます。
5. カンチキ(頁237)
- 地域:山梨県
- 様子:背中に亀甲を背負い、頭はざんばら髪、顔は青黒く、烏天狗に似ている。水中に人を引く力が強いですが、逆に押さえれば、ひっくり返ってしまう。
- 人間の尻こぶ(肛門)から内臓を引き出して食べます。
6. ガラッパ(頁220)
- 地域:奄美大島、トカラ列島
- 様子:体が細く、手足が長い。頭に皿があり、口生臭い。
- 春は川辺、秋は山に住みます
- 山で人に憑く。道に迷わせ、腹痛を起こせることなどがあります。
- カラッパの悪口を話してはいけない。友達になると、魚がよく釣れます
7. エンコウ(頁120)
- 地域:中国・四国地方
- 川・池・海に住む。金物が嫌い。相撲が好き。人に憑きます。
- 高知県南国市では、エンコウ祭(猿猴祭)、毎年6月の始めのところに行われる。胡瓜を供えて、一年中の水難除けを願います。
- 類似する妖怪:山に住んでいる芝天狗、旧暦6月7日の祇園の日、川に入って、エンコウになります。
→エンコ婆(頁121)、地域:愛媛県宇和地方
8. 祢々子河童(頁546)
- 地域:利根川
- 関東の女性親分河童。生簀から魚を盗み、馬・子どもを水に引っ張る、キュウリ畑を荒します。
- ある日、馬を引っ張ろうとする際に失敗、許してくれるお礼として切り薬の秘法を伝授しました。
- 祀っている神社があります。
9. 川者(頁233)
- 地域:大分県
- 取り憑かれると病気になる。専門の法者に落としてもらうしかありません。
- 取り憑かれるのは女性が多い、取り憑かれた女性は媚態を演じます。
- 大分県中津市、河童お詫びの証文がある。誓約文は1786年のもので、署名はケンヒキ太郎。
10. キジムナー(頁243)
- 地域:沖縄
- 別名:セーマ、ブナガヤー
- ガジュマルの木の精霊
- 様子:姿は赤ん坊のようで、全身毛。魚を片目だけ食べます
- 夜に提灯を持って歩くと、火が取られます
- 原因不明の火:キジムナー火、漁が上手。
- 嫌いなもの:蛸、屁、熱い鍋蓋
最後の最後、
皆様、2017年の第12回妖怪検定の申し込みが始まりましたよ!!
申し込み期間は2017年8月13日(日)~9月30日(土)で、妖怪博士を目指す方々もぜひ忘れずに!!
詳しい情報は境港妖怪検定オフィシャルサイトを御覧ください
『日本の刺青と英国王室』:転々とする文明と野蛮の視線
皆様、「刺青」といえば、頭の中に浮かぶものはなんですか?
わたしは、台湾出身ですが、来日した際に、温泉に入ることがありまして、タトゥー、刺青(いれずみ)お断りの看板に驚いたことがあります。温泉のみならず、プールでも、タトゥー・刺青をいれたお客さんにラッシュガードを着用せねばならず、なるべく模様の露出を少なくするようになどの注意事項が書かれていました。
タトゥーに対する知識はほぼ皆無なので、最初禁止の原因は色落ちにあるのではないか、という衛生面的な問題だと思いました(常識が無さすぎてすみません)。しかし、後々に知りました、日本において、刺青はヤクザの方を連想させ、体に彫る模様は威圧感があり、怖いということで刺青の客の入浴を禁止しているということを。
【目次】
しかし、近年では、オリンピックの開催が迫り、外国人の観光客を招致するために、タトゥー客入浴の規制緩和についての議論も盛んになってきまして、タトゥー・刺青を許可する温泉なども比較的多く増えてきました。日本の浴場でのタトゥー・刺青客の受け入れについて、ニュース報道のみならず、バラエティ番組までこの問題を取り上げました。数々の議論が飛び交わす中に、時代遅れの規制を解除すべき声がある一方、外国人のみ許可する声もあり、郷に入っては郷に従え、外国人でも日本の浴場での刺青禁止の風習に従うべきだという声もあります。
このような、海外の視線を意識し、刺青に対する考えの違いは、明治期からすでに芽生えていたのです。小山騰の著作、『日本の刺青と英国皇室:明治期から第一次世界大戦まで』は、ヨーロッパ皇室内に巻き起こした「日本刺青ブーム」について描きました。
大ヒットした日本の刺青
かつてヨーロッパでも刺青の風習がありましたが、いつの間に忘れ去られました。18世紀後半になると、太平洋諸島に航海したキャプテン・クックによって再び紹介され、船員たちを中心に、英国人の間に広がっていきました。そして、この刺青の流行りは平民の間にとどまらず、1870年代から20世紀の初頭に渡り、皇室関係を含める英国の上流階級の間にもブームになりました。
その中でも、日本の刺青技術は特に好まれ、明治時代来日した王子の中にも、日本で刺青をした人もたくさんいたのです。
『日本の刺青と英国皇室』に基づき、刺青をした皇族の方の超簡単な関係図を書きました。(本当に大変簡略で、失礼なところすみませんでした)
興味のある方はぜひ『日本の刺青と英国皇室』の第三章を参照してください。ヨーロッパ皇室の関係性は恐ろしいほど複雑でした(ヴィクトリア女王とアルバート公との間、なんと9人の子どもがいました!)、灰色の方は姻族の意味を表しています。
緑の星★のついたエドワー七世は、英国皇室の刺青が流行りだした火付け役で、1862年中東で旅行する際に、エルサレムで十字架の刺青をしました。
そして、エドワー七世はの弟、アフルレット★(1869年来日)と、エドワー七世の息子のアルバート・ヴィクター(1881年来日)★とアルバート・ジョージ二人★(1881年来日)とも日本に訪ねました、刺青をしました。
ヴィクターは舞鶴の刺青を入れ、ジョージは龍を入れました。
刺青を入れているジョージ王子(画像出典:http://szubkult.blog.hu/2017/03/16/kivarrt_vezetok)
闇の中に咲いている牡丹
日本の刺青の良さについて、『日本の刺青と英国皇室』の中では、『原色日本刺青大鑑』の内容を引用し、以下のように述べます。
欧米の刺青は日本人の目から見ると壁に描かれた落書のように映る。つまり、小さな図案が、ある場合は、均斉的に配置されているが、多くの場合、乱雑に散在しているのである。そしてもう一つの差異は素地が黒か白かということだ。日本の素地は黒であり、欧米のは白である。言葉にかえていうなら夜と昼といってよい。日本人の刺青は牡丹にしても闇の中に咲いている。
(『日本の刺青と英国皇室』、p.170−171より)
なるほど、日本の刺青の特徴には、大面積かつ一体感のある模様で、黒をベースにしたため、色鮮やかに映えるのでしょうね。
その中でも、特に人力車の車夫がしていた刺青が、来日した欧米人の目に触れることが多かったようです。このように、皇室、船員、来日した旅行家などを通して、日本の刺青技術は海外に知れ渡り、欧米での「ジャポニズム」風潮にささやかな貢献をしました。
歌川国芳画・『通俗水滸傳豪傑百八人之一個 操刀鬼曹正』
(画像出典:http://morimiya.net/online/ukiyoe-syousai/U829.html)
刺青に映された「文明」と「野蛮」
ところが、日本の刺青が海外でブームになった時、明治政府は、刺青を禁止していました。
山本芳美によると、江戸時代において、刺青は飛脚、火消しなどの都市下層の職人達の間に広く流行りました。幕府は刺青に対して2回の禁止令を出しましたが、厳しく取り締まることなく、職人達の間には依然と流行っていました。1869年、議員さんが「身体へ黥スルヲ禁之議」を提出しました。その話からみると、刺青を禁止すべき原因は以下の三点があります。
1.刺青は父母から与えられた体を傷つけるから
2.刺青は外国人に蔑まれるから
3.刺青で墨刑の跡を消そうとすることは、法律の妨害になってしまうから
1点目と3点目の理由は、すでに江戸時代の禁止令にも見えますが、明治時代から新たに生じたのは外国人の目線を意識するところでした。(ちなみに、墨刑は1868年の際に廃止になりました!)そして、刺青以外、裸体、男女混浴、春画、立ち小便なども、文明開化の視線の下に規制の対象になりました。
1872年(明治5)において刺青を禁じ、原則的に1948年(昭和23)の間まで禁止されました。警察は特に銭湯に目をつけ、刺青のある者を見出し、そして施術の刺青師も取り締まりの対象となりました。この時期において、刺青の名人でさえ警察に拘束され、道具を没収された経験を持っていました……
ところが、政府が心配した外国人の目線は、蔑むよりも、むしろ前半に取り上げるように、好評価の声も数々ありました。
従って、政府が禁止令を頒布する一方、日本の刺青は外国人の間あまりにも好評を受けましたので、日本人に彫る刺青は規制の対象になりましたが、外国人に彫る刺青は大目で見逃されたことになりました、という変わった暗黙のルールができました。横浜、長崎、神戸などの港町では、外国人を対象にする刺青が盛んになっていました。
ここで、話を少し英国の皇室に戻りましょう。
1922年エドワード王子⭐︎(赤い線の星)が来日する際に、父、伯父そして他の親戚のように日本で刺青を入れたいですが、日本政府に断れました。
断る原因では、日本で刺青は違法のことだということでした。
エドワード王子は文句を言いながら、家族の日本で刺青をする伝統を断念しました。
かといって、今まで日本で刺青をしました大叔父のアフルレット、伯父のヴィクター、及びお父さんのジョージでの時代においても、刺青は違法なことでした。
今まで大目に見てきました刺青は、エドワードの時代になると断るようになったことは、日英関係の変化も象徴でもあります。軍事力の上昇によって、今まで断れきれなかったことが断れるようになってきました。
刺青は個人のアイデンティティーの象徴である一方で、国、文化、進歩、野蛮などのメッセージも含まれていました。
刺青を開放することが「ジャポニズスタイル」でしょうか?
それとも刺青を禁止することこそ「ジャポニズスタイル」でしょうか?
刺青をすることは時代遅れか? 禁止する方が時代遅れか?
『日本の刺青と英国皇室』の中に論じてきた文明と野蛮、日本と西洋との関係など、現在における温泉などにタトゥー・刺青客の入浴許可の是非を思考する際に、一つのヒントになれるのではないか、と思いました…
参考文献:
山本芳美、1997、「『文身禁止令』の成立と終焉-イレズミからみた日本近代史-」、『政治学研究論集』(5)、明治大学大学院
読者の方を大募集しております。興味を持っていただけた方は、是非、下のボタンをポッチッと押してくださると嬉しいです!!
↓↓↓↓↓↓
↑↑↑↑↑↑
台湾の信仰と現代化を考える場所:十八王公廟
乾華十八王公廟は台湾北部の廟で、北海岸の道沿いに位置し、海岸沿いのドライブで立ち寄る人も少なくないでしょう。1980年代では人々から熱狂的な信仰を集めましたが、現在では少し落ち着いてきているようです。
先月、3年間の廟の修繕が完成しまして、新しい建物が落慶しました。
[目次]
新しい廟が建設されましたが、今回の記事では、あえて、少し十八王公の歴史をふりかえってみましょう!
乾華十八王公廟外観。周囲は粽や燒酒螺の屋台が集まっている。
写真:新北市客家民俗信仰館ウェブサイトより
十八王公の縁起
十八王公は元々清の時代に建てられた無縁仏の墓であり、墓の中には十七人の海難遭難者と一匹の犬が祀られています。(そして、「王公」の方は、男性の神様に対する尊称です。)
その縁起は以下のように記録されました:
石門郷乾華の十八王公は、清朝から現在にわたって数百年の歴史が持つという。伝説によると、十七人と一匹の犬が大きな帆船に乗っていて、海上で作業している際に突然大きな波が襲いかかってきて、船が壊れて人も亡くなった。犬がそれ(主が亡くなった様子)を見て、みずから海に身を投じて、主のために殉死した。その遺体は乾華一帯に漂着し、住民がすべての遺体を同じ場所に埋葬して、十八王公と称された。
ところが、十七人の身分について、他にも色々な説があります。例えば、ある長者は家族と合わせて十七人と一匹の犬で寺廟に参詣しに行く際に、海難のせいで人と犬全員亡くなったという説があります。何れにしても、十七人の海難遭難者と一匹の犬が祀られるという共通点です。
20世紀初頭、十八王公の信仰は基隆(台湾北部の港)の漁師の間に広まり、1963年に墓の隣に簡単な祠が建てられ、墓本体もタイルで舗装されました。1970年、近隣地区は第一原子力発電所の建設地に選ばれたため、住宅と十八王公の移設が問題視されました。そして、工事が始まると様々な事故が発生し、新聞やニュースが大きく取り上げられました。台湾電力公司(台湾国内唯一の公営電力会社)と十八王公の祠の管理者との間に協議が達成し、古い祠を取り壊し、新しい廟を建設するようになり、電力会社による度重なる建設により、現在広く知られた十八王公廟の規模が形成されました。
冷え性の十八王公
十八王公に捧げる供物は熱々の粽や麻油鶏、タバコが多いです。それは信者が溺死した十八王公は体が冷えていると考えられているためだと言われました。また、漁師が漁に出る際に、体を温めるものを食べることに由来する説もあります。
十八王公の墓には布団が掛けており、同じように体が冷えているという発想です。
写真:新北市客家民俗信仰館ウェブサイトより
お参りしやすいために建てられた墓。台湾の線香は基本的長くさしていますが、」よく見ると、中に点けたタバコが(供物として)混じられています
写真:新北市客家民俗信仰館ウェブサイトより
霊験あらたかな流行神
十八王公の霊験が広く知られるのは、1980年代後半のことです。
1980年代、台湾では「大家樂」というギャンブルが流行っていました。
簡単に言うと、大家樂とは、政府が発行された宝くじの当選数字をもとにしたリスクの高い地下ギャンブルでした。当時、このギャンブルをする人は熱狂的で、家の全財産をぶち込んだ人も結構いましたので、人々はとにかく宝くじの当選数字が知りたがりました。大家楽の流行り出す時期である1985、1986年の新聞資料は常にその状況を「狂気」(中国語:「瘋狂」)として描き、人々は当選数字求めるために神頼みをするようになり、非合法的な宗教施設の数は著しく増加し、霊媒などに頼むこともしばしばあります。
しかし、どのような神様に聞く方が良いかと言うと、正義感のある偉い神様ではなく、親しみやすく、かつ若干道徳的なズレがあり、ギャンブルという「悪いこと」に許しそうな神様の方が良いかもしれません。
そのため、普段あまり有名ではない、祀り手のいない廟、または墓にいきなり多くの人々が向かい、「明牌」(宝くじの当選数字)を訪ねる人が急増しました。霊験のある神様なら、当たったらお礼参りとしてその廟を大きく立て直し、逆に、数字が外れ、霊験のない場合は、神様や仏様の像は逆に捨てられてしまい、像を壊すケースも少なくありません……
このような時代の流れに乗って、この時、十八王公廟は宝くじの当選数字を予測が的確だと噂が広まり、多数の賭博師が殺到しました。願い事はかなり多様ですが、ギャンブルに関する願い(宝くじ、賭博、麻雀)の割合は高く、漁師や海に関する側面が薄くなってしまいました。また、水商売をする女性もここに参詣するといわれました。
新しい廟の建設
1991年、道路建設の計画によって十八王公廟を取り壊そうとする動きがありました。そのため、現在の場所と2キロ離れた場所で、新しい十八王公廟を建立し始め、1995年の際に落慶しました。その特徴は高さ30メートルの巨大な犬の像で、胎内巡りもできるようです。
新廟の建設と伴い、旧廟は元々取り壊す予定であるが色々な事情の関係で現在までは両方並立している状態です。「大家樂」が禁止された後、十八王公廟の爆発的なブームが徐々に落ち着いてきました。
新十八王公廟と巨大な義犬像。
写真:新北市客家民俗信仰館ウェブサイトより
①は旧廟の位置で、②は巨大の犬神の像のある新廟の位置です。ただし、今年は旧廟の修繕(…修繕というより、建物を全部取り壊して立て直すという方が適切かもしれません)で、旧廟が新廟より新しくなるややこしい状況になりました(笑)
2014年6月上旬、十八王公廟(旧)は工事に入りました。それは2010年から始まる都市計画の一環であり、趣旨は十八王公廟周りの不法建造物を取り払らい、環境保護、歴史的特色のある新しい観光地を作る計画です。
そして、今年の6月、新しく改築した十八王公廟が落慶しました。
きれいになる十八王公廟(旧)を考えると、なんか寂しくなる感じですが、変に「昔」の時代を思うノスタルジーに陥るも良くないでしょう。
新しく建設された十八王公廟も21世紀の風景を反映したら、それでいいでしょうね。
『スピリチュアル紀行 台湾: 魂をゆさぶる麗しの島』では、古い旧廟の様子を紹介しています。
興味のある方は是非!!
参考文献
-
練美雪(2013)、「新北市石門區乾華十八王公廟傳說研究」國立東華大學中国語文学学科 修士論文。
-
黄萍瑛(2010)「十八王公」(文化部臺灣大百科:http://nrch.culture.tw/twpedia.php?id=1981)
-
胡台麗(1989)「神、鬼與賭徒:大家樂賭戲反映之民俗信仰」『中央研究院第二屆國際漢學會議論文集』台北市: 中央研究院 ページ401-424。
-
志賀市子(2012)『「神」と「鬼」 (き) の間 : 中国東南部における無縁死者の埋葬と祭祀』 風響社。